2008年春、本会実施の訪台団参加者を前に説明する許昭栄さん

蔡英文総統は11月5日、この「戦争と平和記念公園」で行われた「台湾籍老兵記念式典」に初めて臨席し、元台湾籍日本兵らを追悼し「政府として『正義の追求』を支持する認識を示した」という。この記念公園は、故許昭栄氏が元日本兵台湾人のために私財をなげうって造られたものだ。

2008年5月20日、馬英九氏の総統就任式の当日、許昭栄氏は「戦争と平和記念公園」内にある「台湾無名戦士慰霊碑」の前において、自分の車の中でガソリンを被って焼身自決された。

自決する前年、高雄市議会は許昭栄氏が造っていた公園の名称を「八二三戦役記念公園」に改称すると決議し、許昭栄氏はこれに抗議して翌年3月に名称問題は撤回されたが、今度は「八二三戦役戦没者記念碑」を建立するという事態に遭遇する。

許氏は、これでは大東亜戦争で戦歿した台湾出身者や、台湾人無名戦士の慰霊と顕彰を目的とした「戦争と平和記念公園」の意義が完全に抹殺されると考え、この決議を覆すべく市当局や市議会と交渉、猛烈な抗議運動を展開。しかし、決議は覆らなかった。自決は身を挺しての最後の抗議だった。

許氏は、当時の陳水扁総統へ「戦争と平和記念公園」で行っていた「台湾籍老兵記念式典」への参列を招聘していたそうだが、叶わなかった。それも自決の一因と言われている。今般、総統の蔡英文氏が参列し、なによりも喜んでいるのは泉下の許昭栄氏だろう。

本会の柚原事務局長が東京台湾の会が発行する「台湾研究資料68号」に寄稿した許昭栄氏を悼む「台湾に希望の道を切り拓いた許昭栄さん」を下記に紹介したい。


台湾に希望の道を切り拓いた許昭栄さん  柚原 正敬(日本李登輝友の会事務局長)

【東京台湾の会「台湾研究資料68号」:2015年4月10日】

◆映画「台湾アイデンティティー」

2013年7月初旬、酒井充子(さかい・あつこ)監督のドキュメンタリー映画「台湾アイデンティティー」が日本で公開された。その半月前、私は試写会でこの映画を観た。

その4年前、酒井監督は初の監督作品として映画「台湾人生」を手掛けている。二二八記念館の日本語解説ボランティアの蕭錦文さんや台湾少年工出身の宋定国さんら、台湾の5人の日本語世代へのインタビューを通して日台関係を描き出した映画だ。

この「台湾アイデンティティー」は、その第2弾と言ってよい。白色テロによって父を奪われた高菊花さん、戦後は学校の先生として「本当の民主主義」を子供たちに伝え続けた台湾少年工出身の黄茂己さん、旧ソ連に抑留されたために二二八事件に巻き込まれずに済んだ呉正男さん、台湾独立派の日本語資料を翻訳しようとして反乱罪で逮捕されて火焼島(現・緑島)送りとなった張幹男さんなど、6人にインタビューしたドキュメンタリー作品だ。

張幹男さんが政治犯として逮捕される原因を話している場面を観たとき、聞き覚えのある話だと思った。よくよく思い出してみると、許昭栄さんにいただいた『知られざる戦後─元日本軍、元国府軍老兵の血涙物語』の中に書かれていたことだった。

許昭栄さんにこの本をいただいたのは2002年の9月、私が代表をつとめていた台湾研究フォーラムの「認同台湾研修団」で訪台した台北のホテルだった。この年の12月に日本李登輝友の会を設立することになるが、それまで台湾研究フォーラムでは2000年から毎年「認同台湾研修団」として訪台していた。

初めてお会いした許昭栄さんは自著『知られざる戦後』を数冊持参していて、この本を中村粲(なかむら・あきら)、名越二荒之助(なごし・ふたらのすけ)、冨士信夫(ふじ・のぶお)など、日本でも大東亜戦争や東京裁判の研究者として著名な先生方に届けて欲しいとのことだった。

ただ、来ていただいたのは出かける1時間ほど前のことで、台湾出身の日本兵経験者は戦後、蒋介石政権下で辛酸を舐めたことなどを書いたと本の内容を話し、中村粲先生などの名前を記したその本を数冊託された。その人々を慰霊するための施設を作りたいと言っていたことは覚えているが、残念ながらその他のことはよく覚えていない。

帰国してからは、日本李登輝友の会の設立のために奔走していたので、しばらく『知られざる戦後』を読む機会もなく打ち過ぎた。そのうち時間ができた折に読んでみたが、許昭栄さんの自伝的要素が強く、苦労された軌跡に胸を打たれた。

その中で許昭栄さんは、廖文毅が台湾共和国臨時政府を東京で設立したときの資料「台湾独立十周年 一九五五年」のパンフレットを取り寄せ、海軍関係の仲間に呼び掛けて台湾で中文に翻訳する話をつづっていた。許さんは廖文毅の動きを「これこそ台湾の希望の道」と思い、密かに取り組んだものの、コピーを渡した一人の不注意から発覚、10人が逮捕され政治犯として緑島送りとなる。

この10人の中の一人が張幹男さんだった。昭和5年生まれの張さんは28歳から36歳までの8年間、張さんより2つ年上の許さんは首謀者とみなされ、30歳から40歳までの10年間、政治犯として緑島に収容された。

もちろん、張さんは「台湾アイデンティティー」の中で許さんはじめ10人の名前などは挙げていない。試写会から半月後、この映画が東京・東中野の「ポレポレ東中野」で公開され、初日に駆けつけて張幹男さんが話す場面を観て、その5年前に自決された許さんのことをまざまざと思い出した。

◆戦慄を覚えた焼身自決

許昭栄さんは、大東亜戦争には日本兵として戦地に赴き、終戦後は日本軍に協力した者として国民党政府から睨まれて中国戦線に投入された。

しかし、国民党独裁時代の台湾では、日本兵として従軍した者は肩身の狭い思いをし、慰霊はおろか生還兵の福祉などはまったく問題にもされなかったという。筋金入りの台湾独立派でもあった許さんはその廉で3度も牢にぶち込まれ、挙句にはカナダへ亡命同然の生活を強いられた。

李登輝総統時代にブラックリストが解除され、ようやく台湾に戻ることができた。帰国後は、自分と同じように苦難の道を辿った台湾人日本兵の補償に奔走し、戦地に斃れた英霊の慰霊碑の建立に尽力する。政府に請願して高雄市旗津に慰霊碑建立の土地を確保、自費を投じて無名戦士の慰霊碑を建立し、念願の「戦争と平和記念公園」を造るなど東奔西走の日々だったという。

その許さんが非業の自決を遂げたのは、2008年5月20日のことだった。「戦争と平和記念公園」内にある「台湾無名戦士慰霊碑」の前で焼身自決された。この日は、この年の3月に総統選で勝った馬英九の総統就任式の当日だった。

その前年、高雄市議会において、八二三戦役老兵の請願によって同公園を「八二三戦役記念公園」に改称するとの決議が通過する。八二三戦役とは、1958年8月23日に中華人民共和国が金門島に対して砲弾を撃ち込んで始まった戦いを指す。これは台湾の人々とは関係ない中国人同士の戦争で、台湾人は巻き添えを食った。

2008年3月には、公園の名称を「八二三戦役記念公園」から「平和記念公園」とするものの、「八二三戦役戦没者記念碑」を建立するということで決着した。

許さんは、これでは大東亜戦争で戦歿した台湾出身者や、台湾人無名戦士の慰霊と顕彰を目的とした「戦争と平和記念公園」の意義が完全に抹殺されると考え、この決議を覆すべく市当局や市議会と交渉、猛烈な抗議運動を展開する。しかし、決議は覆らなかった。自決は身を挺しての最後の抗議だった。

許さん自決の第一報を耳にし、自分の車の中でガソリンを被って焼身自決するという衝撃的な死に方に戦慄を覚えた。

当時、私どもは毎年、鄭南榕烈士を偲ぶ会を催していた。ご存じのように、自由時代社を主宰していた鄭烈士は1988年末、台湾独立建国聯盟主席だった許世楷氏の「台湾共和国憲法草案」を、自ら編集長をつとめる週刊誌「自由時代」に掲載したところ、検察は叛乱罪容疑で逮捕しようとした。だが、鄭烈士は頑として応じず、台北市内の自社に籠城して国民党の圧制に抗議し、完全な言論の自由を求め、「国民党が私を逮捕できるとすれば私の屍だけだ」と宣言。翌年4月7日、警官隊が包囲する中、自らガソリンをかぶって火を放ち、覚悟の自決を遂げている。

鄭烈士は、公開の場で初めて台湾の独立建国を叫び、また二二八事件の真相究明を求め、遂には一死をもって国民党の圧政に抗し、台湾に民主・自由の道を切り開いた先駆者だった。

この年の4月にも、台北駐日経済文化代表処代表に就かれていた許世楷氏と日台交流教育会専務理事の草開省三氏を講師に迎えて4回目となる偲ぶ会を開いた。その1ヵ月半後に、許昭栄さんがガソリンを被って覚悟の自決をされたのである。

第一報を聞き、許さんは鄭南榕と同じように、自らの命を絶つことによって隘路を切り拓こうと考えたのかもしれないと咄嗟に思った。

◆台湾の真の独立のため

戦慄を覚えたのはそればかりではない。実は、ついその3ヵ月前に許さんとお会いしていたからでもあった。

日本李登輝友の会では2007年から台湾に河津桜の苗木を寄贈している。台湾側が桜植樹式を行うというので、その年から「桜植樹式とお花見ツアー」と銘打って訪台していた。2008年も2月27日からこのツアーで訪台した。

このときは、高雄の澄清湖と嘉義の奮起湖の2ヵ所で植樹式と記念碑の除幕式を行うという予定だった。そこで、せっかく高雄まで足を伸ばすなら、許さんに旗津(きしん)の「戦争と平和記念公園」を案内していただきたいと思い、許さんに連絡すると快くお引き受けいただいた。

ツアー初日、6年ぶりにお会いした許さんの案内で「戦争と平和記念公園」を訪問した。 許さんは公園の意義を私どもに説明、一つ一つの碑を懇切に説明いただいた。

その夜は夕食会にも来ていただき、公園の現状や中国大陸に残された台湾老兵の話などを切々と話していただいた。しかし、許さんの話はあまりにも重く、私は聞き役に徹するしかなかった。そのときは、許さんが鄭南榕と同じく覚悟の焼身自決をするなど夢想だにしなかった。

許さんが自決されてから5年後、映画「台湾アイデンティティー」で張幹男さんの話を聞き、「戦争と平和記念公園」を案内していただいたことや悲報に接したときのことを改めて思い出した。

台湾人の歴史観に立ち、台湾人としての誇りを持ち、台湾の真の独立のため自らの命を懸けた益荒男、許昭栄さん。台湾人はもとより、日本人としても、鄭南榕烈士とともに忘れてはならない、台湾に「希望の道」を切り拓いた先駆者である。