9月中旬の訪日を体調不良のために延期された李登輝前総統でしたが、訪日の際に東京で講演する予定だった内容の原稿全文を、産経新聞が9月14日から全8回にわたって連載しています。

本会HPでは講演原稿「日本の教育と私」全文を順次掲載していきます。

「訪日延期 李登輝氏、講演原稿寄せる」

台湾の李登輝前総統(83)は9月中旬に予定していた訪日を延期したのに伴い、その際に東京で行う予定だった講演の原稿全文を、「日本の若者、そして国づくりのためにお役に立ちたい」と、産経新聞に寄せた。李氏の寄稿の全文を8回にわたって紹介する。

原稿は、李氏が日本側の要請を受けて、訪日の成否が微妙に揺れていた8月中旬に執筆し、同下旬に台北市内で開かれた日本の自民党訪台団との会合で披露された。李氏はそれを骨格とし、さらに推敲を重ね、完成させた。

原文は、旧漢字と旧仮名遣いによる鉛筆書きの精緻な文章で、政治色を排し、一語一句に80余年の人生に刻まれた日本への思いがにじんだものになっている。

李氏はこの中で、台湾統治を教育から始めた日本の植民地政策を、「世界にも例がない」と評価し、自らの実体験を踏まえて、「台湾人は日本教育を通じて世界の新思潮を知った」と指摘。さらに「武士道精神に根ざした実践躬行の日本精神」を、「日本人本来の価値観として今一度想起してほしい」と訴えている。

執筆に向け「若き日本人にメッセージを残したい」と話したという李氏は、今回の日本旅行で訪問を予定していた「奥の細道」ゆかりの地に抱く思いを特筆。「日本文化の優れた精神性と美学的情緒を何とか外国人や今の若い人々に伝えようと考えた」と訪問を希望した真意を明かしている。

李氏は当面、訪日を見送る考えであり、混迷する台湾政局への対応に専念するものとみられる。

2006年9月14日付・産経新聞


日本の教育と私

李登輝

(1)培われた生命と魂救う考え方

ご来賓の皆様、こんにちは! ただ今ご紹介を受けました李登輝です。

この春に体調を崩し、5月に予定していた日本旅行を見送ることになり、皆様にもご心配をおかけしました。しかし、医師の指示に従って静養を続けたところ、ようやくここまで回復し、ここ東京で皆様にお会いすることができました。

念願の「奥の細道」を訪ねる夢は、体調の問題もあって今回は叶(かな)いませんが、今日は「日本の教育と私」をテーマに、「奥の細道」に見る日本精神についてお話し、これからの国造りに役立て頂ければと思います。

ご承知の方も多いと思いますが、1994年の春、歴史作家司馬遼太郎先生が『台湾紀行』の著作を終えて再度台湾を訪問なされました。その時、特に時間を作って私を訪れて、対談が行われました。

私はその時、家内に司馬先生との話はどんなテーマがいいかなと話したら、「台湾人に生まれた悲哀にしましょう」と言いました。400年以上の歴史を持つ台湾の人々は、自分の政府もなければ、自分の国というものを持っておらず、国の為に力を尽くすことさえもできない悲哀を持っているからです。

1923年に生まれた私は今年で満83歳になります。そして台湾人に生まれた悲哀を持ちつつも、その一方で、外国の人には味わえない別の経験を持っていることは否めません。それは、生涯の中で多種多様な教育を受けたことです。22歳までは日本の徹底した基本教育、戦後4年受けた中国の大学教育とアメリカ4年間の留学です。

中国の4年間にわたる大学教育も、結局は日本人の教授による日本教育の延長でした。アメリカにおける前後2回の留学は、職業的な面での教育でした。

台湾人に生まれた悲哀と言っても、このような多様な教育、特に日本の教育を受けていなければ、現在の私には、おのれの生命と魂を救う基本的な考え方は得られなかったと思います。日本という国の植民地でありながら、台湾は日本内地とは変わらない教育を与えられたが故に、非常に近代化した文明社会が作り上げられたのです。【2006年9月14日付・産経新聞に掲載】

(2)新知識が儒家の呪縛を解いた

台湾総督府が1895年4月に開庁されましたが、その年の7月には今の士林という所に「国語学校」が開校されました。植民地統治を教育から始めたことは世界にも例のないことです。

日本による新しい教育を台湾に導入したことによって、伝統的な書房や私塾は次々と没落し、台湾人は公学校を通して新しい知識である博物・数学・歴史・地理・社会・物理・化学・体育・音楽等を吸収し、徐々に儒家や科挙の束縛から抜け出すことができました。そして世界の新知識や思潮を知るようになり、近代的国民意識が養成されました。

1925年には台北高等学校が成立し、台北帝国大学は28年に創立され、台湾人は大学に入る機会を得ました。直接内地である日本に赴き、大学に進学した人もいました。こうしたエリート教育の機構整備以前に、既に医学校・農業専門学校・商業・工業の職業学校が数多く設立されており、これによって台湾のエリートはますます増え、台湾社会の変化は日を追って速くなりました。

教育によって近代観念が台湾に導入された後、時間を守る、法を守る、金融貨幣・衛生・新しい経営観念が徐々に「新台湾人」を作り上げていきました。近代化社会に於ける近代化観念の影響の下、台湾人は新しい教育を受け、徐々に世界の新思潮と新観念が分かるようになりました。

20年頃になると、台湾人は西側の新思潮の影響を受け、各種各様の社会団体を作り、議会民主、政党政治、社会主義、共産主義、地方自治、選挙、自決独立など、様々な主張をし、『日本は台湾人に当然の権利を与えるべきである!』と要求しました。

そして台湾は日本の教育の下に、民主化の要求として、政治運動の拠点となる「文化協会」が台湾人の手によって初めて組織されたのは23年のことでした。

この年に私は台北の北部にあたる淡水郡の三芝庄に生まれました。日本の教育が私に与えた影響は、台湾の上述した様な環境と時代的意義があったと思います。【2006年9月15日付・産経新聞に掲載】

(3)多感な時期、人生観に強い影響

私は正式に日本教育を長期にわたって受けた他、家庭の事情や個人的要素が、また強く私の以後の人生観や哲学的思考、日本人観に影響を及ぼしました。1つは父の職業の関係で、公学校6年間に4回も転校し、その為、友達がなかなかできませんでした。1人の兄も故郷の祖母と暮らしていて、家では私1人だけでした。

この経験は多感な私をして、いささか内向的で我の強い人間にしてしまったようです。友達がいない代わりに本を読むことや、スケッチをすることによって時間を過ごすようになりました。

自我意識の目覚めが早い上に、この様な読書好きが、更に自我に固執することになり、強情を張って、母を泣かせたり、学校でも学友との争いや矛盾が起こったりする様になりました。激しい自我の目覚めに続いて、私の心の内に起こってきたのは「人間とは何か」、「我は誰だ」、或いは「人生はどうあるべきか」という自問自答でした。これは母がある時、私に「お前は情熱的で頑固過ぎるところがある。もう少し理性的になってみたら!」と諭してくれたことも関係していました。自分の心の内に沸き起こるものに対して、もっと自ら理性的に対処しようと考えたのです。

そのような少年にとって、古今東西の先哲の書物や言葉にふんだんに接する機会を与えてくれた日本の教育、教養システムほど素晴らしいものはありませんでした。禅に魅せられ、座禅に明け暮れたのもこの頃のことですし、岩波文庫などを通して東洋や西洋のあらゆる文学や哲学に接することができたのも、当時の日本の、教養を重視した教育環境の中に、そのような深い思索の場が用意されていたからであると信じています。

私は日本で最近何冊かの書物を出版しました。それが政治評論であれ、文化的なものであれ、殆どこの若き時代に得た考え方を繰り返し強調し、述べたものに過ぎません。この中で今、日本で一番に関心を持たれているのは新渡戸稲造先生が1900年に英文で出版した『武士道 -日本人の精神-』を解題して書き直したものです。

新渡戸先生との出会いの前にも、既に多くの先哲との出会いがあったわけです。そのうち、日本だけの例を挙げれば、私が自我に悩み、苦行しようと、禅によって自己修練に励んだ時に、鈴木大拙先生の「禅と日本文化」等の著作が非常に役に立ちました。臨済禅師の流れを継ぐ鈴木先生は、この東洋哲学としての禅思想を一早く欧米に紹介すると共に、日本文化に禅思想が深くかかわっていることを詳細に述べています。

懸命に鈴木先生の本を読み漁っているうちに、明治時代における日本精神のもう1人の体現者である西田幾多郎先生に出会いました。文学の方面では夏目漱石先生の偉大な思想的貢献を忘れてはなりません。明治44年頃、ロンドンからの帰国後における「私の個人主義」を中心とした創作が徐々に「則天去私」に移り変わる過程は本当に偉大な精神転換でした。【2006年9月16日付・産経新聞に掲載】

(4) 進歩と伝統築いた武士道精神

私が初めて新渡戸先生の「武士道」-日本人の精神-という本に出会ったのは、旧制の台北高等学校時代でした。武士道などというと、封建時代の亡霊のように言う人もいますが、この本を精読すれば、そのような受け止め方がいかに浅薄なものか、すぐにわかるでしょう。

そしてこれに解説を加えた私の「『武士道』解題」の中で、声を大にして武士道精神を再評価しようと言っているのは、日本および日本人本来の精神的価値観を今一度明確に想起して欲しいと祈るような気持ちで切望しているからです。民族固有の歴史とは何か、伝統とは何かということを、もう一度真剣に考えてほしいのです。

文化の形成は、「伝統」と「進歩」という2つの概念を、いかに止揚(アウフヘーベン)すべきかという問題ですが、「進歩」を重視するあまり「伝統」を軽んずるような二者択一的な生き方は愚の骨頂だと思うのです。

最近の日本では、一般的に、物質的な面に傾いていると言われますが、その結果、皮相な「進歩」に目を奪われ、「伝統」や「文化」の重みを見失うことがあります。「伝統」という基盤があるからこそ、初めて「進歩」が積み上げられるのであり、伝統なくしては真の進歩など、あり得ないのです。

戦後、1946年、私は台湾人に生まれ変わるために日本を離れた後、「新日本」が大きく変わったことも承知しています。そしてその変化が、大きな進歩をもたらし、今日の世界第2の経済大国を造り上げる原動力のひとつになったことも、また否定できない厳然たる事実だと思っております。

しかし、そのために最も大切な「伝統」まで捨て去ってしまったら、それはもはや本来の意味における「進歩」ではあり得ないのではないでしょうか。

有史以来、日本の文化は大陸などから滔滔(とうとう)と流れ込む変化の大波の中で、驚異的な「進歩」を遂げ続けてきたわけですが、結局、それらの奔流に飲み込まれることもなく、日本独自の伝統を立派に築き上げてきました。

日本人には古来、そのような希有なる力と精神が備わっているのです。外来の文化を巧みに取り入れながら、自分にとってより便利で都合のいいものに作り変えていく―このような「新しい文化」の創り方というのは、私は一国の成長、発展という未来への道にとって、非常に大切なものだと思っているのです。

そして、こうした天賦の才に恵まれた日本人がそう簡単に「武士道の精神」や「大和魂」といった貴重な遺産や伝統を捨て去るはずはないと私は固く信じています。

では、日本文化とは何か?その結論を言わなければなりません。私は高い精神と美を尚(たっと)ぶ心の混合体が日本人の生活であると言わざるを得ません。【2006年9月17日付・産経新聞に掲載】

(5)誠意ある実践こそ日本精神

武士道とはかつて日本人の道徳体系でした。封建時代には武士が守るべきことを要求されたもの、もしくは教えられたものです。

それは成文法ではない、精々、口伝による、もしくは数人の武士、もしくは学者の筆によって伝えられた僅かの格言があるに過ぎず、むしろそれは語られず、書かれざる掟、心の肉碑に録されたる律法たることが多いのです。不言不文であるだけ、実行によって一層強い効力が認められているのです。

それはいかに有能なりといえども1人の人の頭脳の創造ではなく、またいかに著名なりといえども1人の人物の生涯に基礎するものではなく、数十年、数百年にわたる武士の生活の有機的発達でありました。それがやがては日本人の行動基準となり、生きるための哲学にもなりました。

具体的には、武士道精神は公の心・秩序・名誉・勇気・いさぎよさ・惻隠の情・躬行(きゅうこう)実践を内容にしつつ、日本人の精神として生活の中に深く浸透していったのです。

日本精神について、台湾嘉南大圳、烏山頭水庫(ダム)を建設した八田與一氏を例として述べましょう。

嘉南大☆の灌漑面積は15万ヘクタール、烏山頭ダムの水源建設総工事費は400万円、当時の台湾総督府の年間予算に匹敵する大工事でした。工事期間は10年、32歳の若さでこの巨大工事を成し遂げた八田氏は、この工事でソーシャルジャスティスを実践、日本人精神を発揮しました。

烏山頭ダムと濁水渓から取り入れた水は合計1億5000万トン。しかし、これでは15万ヘクタール全域に給水することは不可能でした。

八田氏は普通の土木工事の技術者と違い、『ダムと水路を完成すればそれで終わりである!』とは考えませんでした。彼は農民のためにダムや水路を造るのであれば、何とかして農民にあまねく水の恩恵を与え、生産が共に増え、生活の向上があって初めて工事の成功であると考えました。彼はこのために、三年輪作という耕作方法を考え、水をすべての農民に行きわたる方法を講じました。

嘉南大☆の工事で134人もの人が犠牲となりました。完成後に殉工碑が建てられ、その碑には全員の名前が台湾人、日本人の区別なく刻まれていました。

関東大震災の影響で予算が大幅に削られ、従業員を退職させる必要に迫られたことがありました。その時、八田氏は幹部の『優秀な者を退職させると工事に支障が出るので、退職させないでほしい』という言い分に対し、『大きな工事では優秀な少数の者より、平凡な多数の者が仕事をなす。優秀な者は再就職が簡単にできるが、そうでない者は失業してしまい、生活できなくなるのではないか!』といって、優秀な者から解雇しています。

八田夫婦が今も台湾の人々によって尊敬されるのは、義を重んじ、誠をもって率先垂範、実践躬行する日本的精神が脈々と存在しているからです。八田夫婦の例を挙げて、私がここで皆さんに申し上げたい事は、日本精神の良さは、口先だけではなく、実際に行う、誠実をもって行うというところにこそあるのだということです。【2006年9月18日付・産経新聞に掲載】

(6)生活の中の普遍的な美学

日本文化の優れた面は、かかる高い精神性に代表される、即ち武士道精神に代表される日本人の生活にある哲学であると信じます。心底からこみ上げる強い意志と抑制力を持って個人が公のために心を尽くす以外に、また日本人の生活にある美を尚(たっと)ぶ私的な面があることも忘れてはいけません。

藤原正彦先生は「国家の品格」の書物の中で、日本人の生活内容を「情緒と形の文明」と強調しています。日本人の生活は、自然への感受性と調和であり、もののあわれ、さびとわびを生活の中に見つけ出す、日本人独特の、また、人間として普遍的になくてはならない美学があるのです。

昔、中国で老子は「道可道 非常道」と、道は口で言えるものでなく、口で言えるものは永遠に道ではないと言っています。日本人は生活において花を生けるには花道を、お茶を飲めば茶道と言う様に、生活におけるあらゆる行為が道となっています。それが俳句や和歌という様な形で表現されて、自然との間に共生的関係を持っています。

これは世界の人々にはなかなか分かるものではありません。私が「『武士道』解題」を出版し、そして更に奥の細道を歩きたい気持ちは、日本文化の優れた精神性と美学的日本人の情緒を、何とか外国人や今の若い日本の人々に伝えようと考えたからです。

直感的に、私は芭蕉の著作「奥の細道」は、この様な日本文化の美を丁度よくまとめたものであると思っています。

奥の細道で平泉に到着した芭蕉と曽良が見たのは金鶏山でした。そして昔を偲(しの)びつつ、呆然(ぼうぜん)と立ち尽くして詠んだのが「夏草や兵どもが夢の跡」でした。時間を越えて華やかな過去がすべて一つの草むらにしか過ぎません。山寺を訪れては、蝉の声の潮と周囲の静けさの中で「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を詠みました。自然との調和、心にしみこんで何の説明もいりません。

芭蕉は旅情のほてりが醒(さ)めやらず、最後の気力をふるい起こし、海岸沿いに越後の国に入ります。出雲崎に泊まった時に詠まれた「荒海や佐渡に横たふ天河」は、壮大な景観と佐渡への思い入れの入った句でした。

以上の3句は、時間と空間、存在している景観を十分に情緒と形で表した日本人らしさの代表的なものでしょう。【2006年9月19日付・産経新聞に掲載】

(7)民主主義とは武士道の精神

日本文化の優れた伝統を日本の教育で獲得できた私に、何かなされたでしょうか? これから説明しましょう。

昭和20年8月15日、名古屋城で終戦を迎えた私は数日を経て復員し、京都の下宿に戻ってきました。その時から時間はすでに61年経過し、私もじいさんになりましたが、一昨年、60年ぶりに家族4人でその日本を一週間訪問し、観光する機会を得ました。

この時に私が強く感じたことは、日本は戦後60年で大変な経済発展を遂げたということです。焦土の中から立ち上がり、ついに世界第2位の経済大国を造り上げました。政治も大きく変わり、民主的な平和国家として世界各国の尊敬を得ることができました。その間における人民の努力と指導者の正確な指導に敬意を表したいと思います。

もうひとつ感じたことは、日本文化の優れた伝統が進歩した社会で失われていなかったことです。日本人は敗戦の結果、耐え忍ぶしか道はありませんでした。経済一点張りの繁栄を求めることを余儀なくされたのです。そうした中にあっても、日本人は伝統や文化を失わずに来たのです。

強く記憶に残ったのは、様々な産業におけるサービスの素晴らしさでした。金沢では一流旅館ならではのきめ細かいサービスに驚嘆しましたし、新幹線も車内サービスの充実ぶりに目を見張りました。そこには戦前の日本人が持っていた真面目さや細やかさがはっきり感じられました。

「今の日本の若者はダメだ」という声も聞かれますが、私は決してそうは思いません。日本人は戦前の日本人同様、日本人の美徳をきちんと保持しています。確かに外見的には、緩んだ部分もあるのでしょう。しかし、それはかつてあった社会的な束縛から解放されただけで、日本人の多くは今も社会の規則に従って行動しています。

さらに私が感じたのは、日本人の国家や社会に対する態度がここへ来て大きく変わり始めたことです。戦後60年間の忍耐の時期を経て、経済発展を追求するだけでなく、アジアの一員としての自覚を持つようになりました。武士道精神に基づく日本文化の精神面が強調され始めたのです。

ここ20年間、台湾にデモクラシーを持ち込んで、政治体制を変更した私が「『武士道』解題」を書き、副題にノーブレスオブリージェをキーワードとして、指導者たるべき者の心構えを説くことを考えれば、民主主義と武士道精神の間には、なんら矛盾がないと思います。デモクラシーと言うのは、個人のことを考えるだけではなく、国民の声を聞いて、国家のために働く、武士道の精神でもあるのです。【2006年9月20日付・産経新聞に掲載】

(8)「自我」排し高い次元に生きる

最後に、最近台湾で、「台湾民主化の道」と言うDVDが出回っています。20年来の台湾の民主化の過程に於いて、私は与党国民党の指導者として、台湾の国民の声に耳を傾け、主流の民意を尊重し、それを改革の推進力として来ました。このDVDの中で台湾の民主化を進めた私に対して、「李登輝は一体何者や?」と問うていました。

それに対して台湾大学史学科の呉密察教授は、『李登輝氏は日本の大正世代に生まれ、徹底的に日本教育の薫陶を受け、忍耐、自制、秩序を重んじ、公の為に奮闘、努力する精神を身につけた人である』と返答しています。

この答に同意はしますが、日本的教育で、最も強調されている“実践躬行”が述べられていません。日本的教育の長所は、武士道精神に表現される実践にあると言えるでしょう。私も知ること、考えること以外に、実践する能力に全ての意義を与えています。

私にとって、人生は1回限りであり、来世はありませんから、一部の宗教が所謂「輪廻」を唱えるのも、私はそれを自己満足に過ぎない話だと思っています。「意義ある生」をより肯定すべきだと思います。

「人間とはなんぞや」、または「自分とは誰だ」という哲学的問題から出発し、自己啓発へ発進すれば、人格及び思想の形づくりが完成できます。「自我」の死への理解を踏まえたうえで、初めて肯定的な意義を持つ「生」が生まれるのです。

実際に、人間は単に魂(心)と肉体から構成されています。けれども精神的な弱さは更に高い次元の存在を必要とするのです。総じて言えば、私達には全ての権限を有する神が必要です。と言っても、すぐに信仰を持つのも簡単ではありません。信仰への第一歩は、見えないから信じない、見えるから信じることでなく、ただ信じること、実践することです。純粋理性から実践理性へと、もっと高い次元に生きる価値を見つけ出すことが、人生の究極の目標です。

従って、この日本的教育によって得られた結論は「私は誰だ」という問いについて、「私は私でない私」なのです。この答えによって、私は正しい人生の価値観を理解し、いろいろな問題へ直面する時にも、「自我」を排除して、客観的立場で正しい解決の方法を考えることができるようになりました。これが日本の教育を通して私に与えられた人生の結論でしょう。

これをもって私の講演を終わらせてもらいます。ありがとうございました。【2006年9月21日付・産経新聞に掲載】