神奈川李登輝友の会支部長 石川 公弘

今年は児玉源太郎大将が、明治39年(1906年)7月23日に没してから、ちょうど100年となる節目の年です。児玉源太郎大将をご祭神として祀る江ノ島の児玉神社では、7月23日、その100年祭が盛大に行われ、私たち日本李登輝友の会神奈川支部も役員が参加しました。

児玉源太郎大将は、日本陸軍の中枢として、また政治の柱石として、大活躍された明治の偉人です。陸軍大臣、文部大臣、内務大臣などの要職を歴任しましたが、その名を最も高めたのは、総参謀長として、日露戦争を見事勝利に導いたことです。

その一方、児玉源太郎将軍は、台湾総督を9年間にわたって務められ、植民地経営の天才・後藤新平などを登用して、台湾の近代化を促進し、多くの台湾人に慕われました。江ノ島は、児玉源太郎大将がこよなく愛されたゆかりの地で、創建に当っては、台湾の方々から多額の奉賛があり、建築には全て台湾檜が用いられました。

今次大戦中、8.400名の台湾少年工なる人たちが、当時の神奈川県高座郡(今の大和市や座間市)にあった高座海軍工廠で、戦闘機製造に従事しました。働きながら中学校卒業の資格を得ようと、志願して来た彼らの唯一の楽しみは、休日に江ノ島へ行くことでした。

食物の豊かな台湾から、食糧不足の内地へ来た少年たちにとって、江ノ島は当時つぼ焼きが食べられる数少ない場所でした。つぼ焼きを食べること、児玉源太郎元台湾総督を祀る児玉神社に参拝すること、故郷に続く海を見ること、それが楽しみでした。

“この海が台湾につながっている”、“海のむこうに故郷台湾がある”、そう思うと心が和んだといいます。平均14~5歳の少年たちにとって、望郷の念はたいへん強いものでした。島崎藤村の「椰子の実」を口ずさんで、涙したという話も聞きました。

名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の実一つ
故郷の岸を離れて
なれはそも波に幾月

敗戦により、8.400名の台湾少年工の人たちは、志半ばで台湾へ帰りました。そして、幾多の試練に遭いながら、逞しく生き抜きました。彼らはその技術で、台湾の工業化に貢献しただけでなく、李登輝さんの目指す台湾民主化に、その尖兵として活躍しました。

李登輝さんの書かれた扁額「兒玉神社」が除幕されたとき、私には、李登輝さんを「建国の父」と仰ぐ彼らの誇らしげな顔が、次々と浮かんできました。そして、日本と台湾が、特に神奈川と台湾が、強い絆で結ばれていることを感じたのです。