第12回 日本李登輝学校台湾研修団

平成21年10月30日(金)~11月3日(火)39名(高松好夫団長)

本会事務局 佐藤和代

第12回李登輝学校研修団(高松好夫団長・藤原一雅副団長)は、10月30日から11月3日まで4泊5日の日程で開催された。去る9月に来日された李登輝先生はご健康を回復され、東京、高知、熊本を巡り、ご講演もこなされている。再び李先生にお目に掛かり、各界の先生方のご講義を拝聴しようと、熱意ある39名が参加した。

第1日・10月30日(金) 正午過ぎより桃園空港に日本各地から研修生が集まり、宿泊先の淡水中信大飯店で現地参加者と合流。参加者は22歳から85歳まで、学生・親子・夫婦とバラエティに富んでいる。

ほどなく台北の台湾団結聯盟のパーティ会場へバスで向かう。開会して間もなく李登輝元総統が登壇され、約30分に亘って迫力に溢れるスピーチをされた。ここでECFA(両岸経済協力枠組み協定)反対の声が聞かれた。このECFAが今回の研修のキーワードとなる。

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第2日・10月31日(土) 研修は宿泊先から徒歩5分ほどの群策会のビルの一室で行われた。初めに郭生玉・李登輝学校教頭から歓迎の挨拶を受けた。

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最初の講義は、鄭清文先生(作家)による「台湾の文学」。その特徴は自分の郷土や生活、抵抗の歴史を写実的に描くものである。対して中国文学は古典に偏るため考え方が現代とずれ、恋愛を語らず、魅力に欠ける。中国の文学から学ぶものはないと手厳しい。

次は羅福全先生(元亜東関係協会会長)の講義「世界情勢の中の台湾」。馬英九は傾中しており、中国とECFAを結ぶ恐れがある。だが日米は「現状維持」(台湾は中国の一部ではない)の立場だ。日米同盟が中国との力の均衡を保ち、台湾の安全保障上の傘として機能している。日本には日米同盟を保持してほしい、と要望した。

午後は黄昭堂先生(台湾独立建国聯盟主席)の講義「馬総統下の台湾の状況」から。台湾人意識調査「自分は台湾人か中国人か」「独立か統一か」の結果が面白い。「自分は台湾人」という人が馬政権発足後も増え続け50.8%に上っている。また、「独立派」も増え、09年には「統一派」9.5 %に対し「独立派」が12.0%に。台湾人は「台湾人意識」「独立」を志向しており、馬政権を意識しなくてもよいとの楽観論を示された。

また、台湾李登輝之友会の理事長に就任したばかりの蔡焜燦先生も挨拶。折しもこの日は、蒋介石の誕生日。流刑の地「火焼島(緑島)」において、ある年の今日「今日は休みだ」と言われ、政治犯の一人が「拝幾(今日は何曜日?)」と訊いた。その「拝幾」が「拝鬼(鬼=蒋介石)」と同じ発音だったため、蒋を誹謗したとしてその刑が三年延びたという話を紹介された。「私は中国を信じない」と仰る蔡先生の厳しさを垣間見る思いがした。

この日最後の講義は呉明義先生(玉山神学院元院長)の「台湾原住民の歴史」。今回初講義となる呉先生はスライドを使われて、終始丁寧に説明された。台湾原住民発祥説には①海外発祥、②大陸発祥、③台湾本土発祥の三説あるそうだ。講義後、呉先生は日本の歌を披露。その歌声にアミ族の血を一同感じたひとときであった。タ食会はレストラン「機場」で開催。映画「台湾人生」に出演された蕭錦文氏が訪れ、参加者と歓談された。

第3日・11月1日(日) 午前中は講義、午後は野外研修の地・金門島に発つ、というのでこの日は研修生も朝から落ち着かない様子。

SONY DSC最初の講義は林明徳先生(台湾師範大学教授)の「台湾主体性の追求」。台湾人の自主性の芽生えは日本統治時代。そして二二八事件により、それははっきり認識された。私達が台湾の主体性を求めるのは、未だ台湾は法律上独立していないからで、この状態を憲法改正で正常化することが目標だ。優しいお顔立ちの先生の胸の裡に秘めるものの強さが伝わってきた。

次の講義は黄天麟先生(第一商業銀行元頭取)の「台湾の経済とECFA」。小さな経済体が大きな経済体に吸収されることを「周辺化」というが、台湾が中国とECFAを締結すれば政治や文化面も周辺化現象を起こし、終極的には統一の危険性が出てくる。台湾は日本・韓国・ASEAN・欧米とFTAを結び、中国一極構造は避けるべきだろう、と指摘された。

講義を終えた研修団は金門島へ。金門島は台湾本島から約300キロ、福建省の厦門まで僅か数キロという位置にある、国共内戦の最前線だった地。戦役の傷跡とそれに巻き込まれた台湾の歴史に思いが至る島である。松山空港から飛行機で約一時間、風獅爺(獅子の形の風神)が迎えてくれた。バスで莒光楼へ。ここは莒光湖を望む高台に建つ楼閣で、中国風の宮殿を模したカラフルな塔は1952年に金門の戦いで戦果を収めた将軍の栄誉を称えて建てられたもの。日が暮れて一行は海鮮料理のレストランへ。高梁酒や美味しい金門料理に舌鼓を打ち、研修生同士もすっかり打ち解けた雰囲気に。

第4日・11月2日(月) 今日は終日、金門島で野外研修。快晴で、風は強いが寒くはない。まず向かったのは太武山。島のほぼ中央にある標高253メートルの山。 形が兜に似ているので太武と名付けられた。「太武山公墓」の門近くでバスを降りる。「国民革命軍陣亡将士紀念碑」が聳え立ち、奥には「太武忠烈祠」の建物が見えた。そこを過ぎると登山道になる。歩道は広く、舗装されていて年配者にも登りやすい。

頂上からは料羅湾が見下ろせ、左に料羅湾に突き出た岬が見える。右の先は翟山へとつながり厦門に近くなる。

蒋介石が書いたという「毋忘在莒」の大きな石碑もあった。これは戦国時代、燕の国に最後の領地まで攻め込まれた斉の国が逆転勝利を収めたという故事に因んだもの。「今我々が莒にいることを忘れてはならない」と戒め励ましている言葉だそうだ。

次は「八二三戦史館」。館外には参戦した戦車、飛行機、大砲などの兵器が陳列されている。1958年8月23日から10月5日にかけて中華人民共和国が中華民国を砲撃した「八二三砲戦」の記念館だ。その砲弾の数は、共産党軍が47万4910発、国民党軍7万4899発と記録されている。砲弾で作られた包丁は金門の名産だ。戦史館には当時の武器や文物や写真、絵画などが展示され、戦役の惨烈さが感じ取れる。

山后民俗文化村(金門民俗文化村)は20世紀初頭の清代に建てられた福建省南部の伝統建築様式である二進式双落建築が立ち並び、テーマパークのよう。赤い瓦屋根、煉瓦と白壁の家屋が18棟も整然と続き、歩道や中庭にも煉瓦や石が敷き詰められていた。

次は「馬山観測所」。地下坑道を歩いて5分位で観測所に着く。肉眼でも対岸が見えるが、望遠鏡を覗くと対岸の建物がよく見えた。ここでは何と携帯電話が「中国エリア」を示していた。

最後の見学地は「翟山坑道」。ここは金門島の地下要塞の中で最も有名だ。花崗岩をくり抜いて作られた幅6メートル、高さ3.5メートル、長さ101メートルの翟山坑道には常時42隻のボートが停泊できたという。階段を降りると、ひんやりとして薄暗い。坑道沿いのライトが凸凹の岩壁と青緑色の水面を照らしていた。見学終了後は駆け足で土産物店を回った。貢糖(ピーナツ菓子)、素麺、包丁、そして高梁酒。皆さん大荷物を抱えて淡水に戻った。明日の特別講義への期待は高まっていく。

第5日・11月3日(日) 研修も最終日を迎えた。お待ちかねの李登輝校長の特別講義である。テーマは「台湾が直面する困難」。李校長は初めに「金門島は如何でしたか」と優しい言葉をかけて下さった。そして日本の鳩山政権と台湾の馬政権を引き比べ、両国の行方に疑問を呈された。

SONY DSC李校長は総統時代に動員戡乱時期臨時条款を停止させ、国共内戦を終結。96年には憲法改正し、人民による総統直接選挙、と着実に民主化の道を進められた。しかし馬総統は存在しない「九二共識」(両岸は一つの中国という国共共同の認識)を持ち出し、人民を不安に陥れた。

そこで李校長は、「いま台湾に必要なのは、台湾がどのような存在なのか、どこに向かおうとしているのかという座標軸を指導者が打ち立てることだ」と強調された。

また「台湾ならではの鋭い見識で、中国の現実の姿を正確に世界へ伝えていく。それが世界において台湾の存在感を高める。世界の中で独自の自画像を描き、それを力強く実践していくことが今後の台湾、そして日本に求められる最大の義務」とも喝破された。最後に李校長は「日本と台湾は力を合わせ、両国のためにお互い努力をしましょう」と呼びかけられ、大拍手の中、講義は終了した。

修了式では李校長が研修生一人ひとりに修了証書を手渡された。実り多き5日間は研修生の心に深く刻まれたようである。ご協力いただいた関係各位に心より御礼を申し上げます。

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