読売新聞神奈川版に掲載された写真

今年は台湾少年工が昭和18年(1943年)に来日して75年の節目の年となることから、李雪峰・台湾高座会会長ら元台湾少年工が来日し、10月20日に「台湾高座会留日75周年大会」(歓迎大会会長=甘利明・衆議院議員、実行委員長=石川公弘・高座日台交流の会会長)が開催される。

座間市内の公園に建立される台湾少年工を讃える顕彰碑の除幕式が行われ、大和市内で歓迎式典が行われる予定となっている。

去る8月8日、神奈川県庁で記者会見を開いてこの「台湾高座会留日75周年大会」開催について報告した石川公弘・実行委員長らは、次の世代に記録を引き継ぐため、来春、台湾少年工の歩みをまとめた記念誌を発刊することも明らかにしている。

台湾少年工は「本廠」と呼んで主に働いていた「高座海軍工廠」だけでなく、三菱重工業名古屋航空機製作所や群馬県邑楽郡にあった中島飛行機小泉製作所(現:パナソニック。群馬県邑楽郡大泉町)、川西航空機鳴尾製作所(兵庫県西宮市)、同姫路製作所、海軍航空技術廠(神奈川県横須賀市)、第二一空廠(長崎県大浦市)、東洋機械工具株式会社(東京・蒲田)、海軍第一一航空廠(呉市)など、全国の航空機製作に関わる工場に派遣されている。

この記念誌には、このような各地の工場で働いていた台湾少年工の写真を掲載する予定で、その写真の情報提供を求めている旨を下記の読売新聞が報じている。

記事にもあるように、そのような写真をお持ちの方やその情報を「台湾高座会歓迎大会事務局」に寄せていただきたいという。

詳細は下記ホームページをご覧いただきたい。すでに10月20日開催の「台湾高座会留日75周年大会」の申し込みも受け付けている。

◆留日75周年歓迎大会開催のご案内

◆台湾高座会歓迎大会事務局
 TEL:046-261-7501 FAX:046-264-6575(橋本宛)
 E-mail:contact@jt70.info


台湾少年工の記憶 継ぐ…高座海軍工廠に動員

【読売新聞・神奈川版:2018年8月16日】

◆大和の石川さん、情報募る

太平洋戦争末期、戦闘機などを製造していた「高座海軍工廠(こうしょう)」(座間、海老名市)では、台湾から来た多くの少年工が働いた。大和市の石川公弘さん(84)は少年時代を彼らとともに過ごし、戦後も親交を結んできた。戦争の記憶が徐々に風化する中、交流も今年で一区切りを迎えるが、石川さんは「正確な記録を少しでも次の世代につなげたい」として、当時の写真を集め続けている。

工廠で働いていたのは台湾から来た12〜19歳の少年約8400人。「5年間の労働で学校の卒業資格を与える」と言われ、国内の労働力不足を補うために来日した。1943年から45年にかけて「雷電」などの戦闘機づくりに携わり、早朝から日没まで働き続けた。

当時、現在の小学校などにあたる国民学校の校長だった石川さんの父親は、大和市につくられた少年工寄宿舎の舎監となった。少年工は「学力優秀、身体強健」などの条件を突破したエリートたちで、同世代だった石川さんは「優秀な人材として評価されており、差別を受けるどころか、待遇も恵まれていた」と振り返る。

◆命落とす少年工も

石川さんは父親と寄宿舎の近くで暮らし、日々の食事は少年工と一緒にとった。43年頃には山盛りの白米に魚料理、けんちん汁などの豪華な食事が用意されたが、戦局が厳しくなるにつれ、ひじきや大豆を混ぜただけのご飯、味付けの薄いみそ汁などに変わっていった。

45年の東京、平塚大空襲では、大和市からも真っ赤に染まる空が見えた。自宅が基地滑走路の近くだったこともあり、撃墜された米爆撃機「B29」や、火を噴きながら基地に戻る雷電を間近で見た。工廠から寄宿舎に帰る途中で機銃掃射を受け、命を落とした少年工もいたという。米軍機の機銃弾が石川さんの家の柱を直撃したこともあった。

◆75周年で記念誌

終戦により少年工らは台湾に帰ったが、まもなく国民党政権が戒厳令を敷き、音信は途絶えた。戒厳令が解除された翌年の88年、元少年工たちは同窓会組織「台湾高座会」を結成。93年に大和市で開かれた記念式典を機に、石川さんらとの交流が活発化した。

だが、参加するために来日する元少年工の高齢化が進んだことから、式典は今年10月の75周年大会で最後となる。石川さんは次の世代に記録を引き継ぐため、少年工の歩みをまとめた記念誌を来春をめどにつくる考えだ。工廠や少年工の写真を探しているといい、情報提供を求めている。台湾高座会歓迎大会事務局(046・261・7501)へ。