本会がほぼ毎月開いている「台湾セミナー」の第20回は、3年前の2014年7月。特別ゲストに小田村四郎会長(当時)を招き、本会理事で前橋市の歴史文化遺産活用担当参事をつとめていた手島仁(てしま・ひとし)氏を講師に「群馬と台湾の深い結びつき」をテーマにお話しいただきました。

小田村会長をお招きしたのは、曽祖父が群馬県令だった楫取素彦(かとり・もとひこ)で、芝山巌事件で亡くなった「六士先生」の一人が楫取県令ご子息の楫取道明(かとり・みちあき)だったご縁によります。

12月9日に亡くなられた小田村四郎・本会名誉会長と手島氏はかなり以前から交流があり、手島氏はこのたび小田村名誉会長への追悼文を「上毛新聞」に寄稿されました。改めて小田村先生のご冥福を祈りつつ、下記にご紹介します。

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手島仁(てしま・ひとし)
昭和34年(1959年)、群馬県前橋市生まれ。立命館大学文学部卒業後、群馬県立中央高校や吉井高校などの教職を経て群馬県立歴史博物館学芸員に就く。この間、群馬県、沼田市、高崎市などの自治体史編纂に携わる。平成25年、前橋市長の招きにより前橋市文化国際課副参事に就任。現在、前橋市文化スポーツ観光部参事。主な著書に『総選挙でみる群馬の近代史』『中島知久平と国政研究会』『群馬学とは』『羽鳥重郎・羽鳥又男読本』など。本会理事。


手島仁・前橋学センター長「小田村四郎先生を悼む 楫取顕彰事業に尽力」

【上毛新聞:2017年12月26日】

群馬県令、楫取(かとり)素彦の曽孫である小田村四郎先生が、ご逝去されました。

先生は1923(大正12)年10月17日、東京生まれ。47年東京帝国大学法学部卒業後、大蔵省に入省。行政管理事務次官などを歴任。その後、拓殖大学第16代総長などに就任されました。

先生の父方の祖父・磯村應は、元長州藩士で熊谷県時代から県職員として楫取素彦に仕え、群馬県土木課長で退職。臨江閣が楫取県令の提言で、下村善太郎ら有力者などが資金を提供し、迎賓館として建設されたことは、よく知られています。この事業の責任者は磯村應で、本館棟札と茶室棟札には「土木課長 群馬縣五等属 磯村應」と記されていました。

磯村應には、音介・延寿郎(夭折)・十蔵・秀策・有芳・利水の男の子がいました。兄弟はみな厩橋学校(桃井小学校)で学び、群馬県中学校(前橋高校)などへ進みました。

楫取素彦は小田村素太郎であったのを、藩命で楫取素彦に改名しました。楫取は長男・希家に小田村家を、次男・道明に楫取家を継がせました。長男夫妻は、磯村の五男・有芳が7歳のとき養子に迎えました。有芳は長じて、道明の次女・治子と結婚。「小田村・楫取家は一体で、家門も花菱」と先生は言っておられ、吉田松陰の血を受け継ぎながら「松陰先生」と常に尊敬の念をもって呼ばれていました。新井領一郎が渡米の援助のお礼にアメリカ人画家に描かせた楫取の肖像画は、長い間、小田村家に飾ってありました。先生は幼少期には、御母堂の治子さんに肖像画のある部屋に連れていかれ、お小言を賜ったといいます。

磯村兄弟は、磯村産業を興し、旧倉渕村に山林を所有しました。そこには自家発電の山荘があり、先生は受験勉強に使われたので、昔の高崎駅や路面電車、旧倉渕村のことなどは懐かしいと話されていました。

2008年、本県で開かれた全国都市緑化フェアを前に臨江閣茶室の改修工事が行われ、楫取県令の雅号から「畊堂庵(こうどうあん)」と命名されました。そこで、先生の謦咳(けいがい)に接していた筆者は、当時の中沢充裕教育長に提案して、先生に「畊堂」と揮毫していただき、3月1日、茶室命名式が先生ご夫妻をお迎えして行われました。

その後も、楫取素彦没後百年事業や大河ドラマ「花燃ゆ」の群馬県実行委員会の名誉顧問などにご就任いただき、ご指導を賜りました。ここに謹んで、小田村四郎先生のご冥福をお祈りいたします。(前橋学センター長)

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小田村四郎さんは12月9日死去。94歳。