台湾総督府から馬車で行啓に出発される皇太子殿下(国家図書館デジタルアーカイブより)

後の「昭和天皇」が台湾を訪問されていたことについて、戦後日本において初めて紹介した一般書は、今から20年ほど前に出された『台湾と日本・交流秘話』(展転社、1996年)だと思われる。

この本の編纂者の一人、草開昭三(くさびらき・しょうぞう)氏が「摂政街道・民衆の心に生きる昭和天皇」と題し、詳細な日程や次高山(つぎたかやま)ご命名のエピソードなどを紹介している。

皇太子の御位にあった裕仁(ひろひと)親王殿下は、大正天皇のご病状が悪化したため、1921年11月25日、御年20歳のときに大正天皇に代わって政(まつりごと)摂(と)られる摂政宮(せっしょうのみや)に就かれている。

天皇ならば行幸(ぎょうこう)だが、皇后陛下や皇太子殿下、皇太子妃殿下、摂政宮などが外出されるのは行啓(ぎょうけい)と呼ばれる。

後の「昭和天皇」、すなわち摂政宮が台湾を行啓されたのは1923年(大正12年)4月16日(月)から27日(金)の12日間。供奉艦の「比叡」と「霧島」に護られたお召艦の軍艦「金剛」に乗られて4月12日に横須賀港を出港し、5月1日に東京ご帰着。帰路の4月29日、22回目のお誕生日を迎えられている。

台湾にはそれまで何人もの皇族方が訪れられていたが、摂政宮の行啓は初めてのことで、日本の台湾統治が始まって約30年、治安が安定してきたことがもっとも大きな誘因だったようだ。それとまた、第7代明石元二郎総督の後任総督だった田健治郎(でん・けんじろう)の並々ならぬ決意が実現させたとも言える。田総督から文官出身の総督となっていて、田総督は台湾総督府が竣工した1919年10月に赴任し、摂政宮の行啓のお迎えを最後の任として1923年9月に退任している。

台湾に大きな反響を巻き起こしたこの摂政宮の台湾行啓について、今ではほとんど語られることはないが、今年で台湾に在住すること20年を迎えた作家の片倉佳史(かたくら・よしふみ)氏がこのほど「nippon.comコラム」に寄稿されている。下記にご紹介したい。

片倉氏はその著『古写真が語る 台湾─日本統治時代の50年 1895―1945』(祥伝社、2015年)でもこの摂政宮の行啓について「詳録・裕仁皇太子の台湾行啓」として詳しく紹介している。本稿と併せて読んでいただければ、当時の台湾でどれほどの一大イベントだったかよく分かるのではないだろうか。

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◆片倉佳史著『古写真が語る 台湾 日本統治時代の50年』


片倉佳史「知られざる日本史――皇太子「台湾行啓」をたどる」

【nippon.comコラム:2017年12月2日】

台湾が日本の統治下に置かれた半世紀。1923年4月、のちに昭和天皇となる皇太子裕仁(ひろひと)親王は摂政の立場で12日間、台湾に滞在した。交通が不便な東海岸や中部山岳地帯には足を伸ばさなかったものの、主要都市をほぼ訪れている。視察先は62カ所にものぼり、催された祝賀行事は232にも及んでいる。まさに、台湾総督府にとっては空前絶後の一大行事であった。

この台湾行啓が実現したのは第8代台湾総督の田健治郎(でんけんじろう)の時代だった。当初は西欧外遊の帰途に台湾に寄ることが計画されたが、長旅で日程の調整も難しいということから帰国後、改めて議論された。

そして、4月5日に出発することが一度は決まったものの、フランス留学中の北白川宮成久(なるひさ)王が4月1日に自動車事故に遭い、パリで死去するという事件が起こった。これを受けて皇太子の台湾行啓は延期となった。

結局、4月12日に皇太子はお召し艦「金剛」で横須賀を出発し、16日に基隆に入港した。

◆台湾の主要都市を巡る

一行が上陸したのは午後1時25分だった。基隆港駅前桟橋では台湾総督府鉄道部長の新元鹿之助が出迎えた。一行はそのまま駅に進み、この日のために仕立てられた特別列車に乗り込んだ。

台北駅に到着したのは午後2時20分。海軍軍楽隊が君が代を演奏し、一行を出迎えた。駅前は清められ、特設の奉迎門が設けられた。沿道は奉迎の団体や一般市民で埋め尽くされ、この日だけで10万もの人が出迎えに上がったとされる。この頃の台北市の人口は17万人程度とされるので、この数字がいかに大きなものかが理解できる。

台北での宿泊所となったのは台湾総督官邸だった。現在は台北賓館の名で迎賓館として使用されている。ここは台湾政府から歴史遺産の指定を受けており、年に数回の一般公開日が設けられている。

注目したいのは、敷地内の庭園に亜熱帯性植物が選ばれ、植樹されていたことである。これはマラリアをはじめとする疫病がまん延していた時代、要人が地方都市に赴かなくても、台湾らしい南国風情を楽しめるようにという配慮だった。

一行は2日間の台北市内視察の後、台中へと向かっている。列車には台湾総督の田健治郎が同行し、途中、桃園台地を通過の際、農業用水路とため池についての説明をしている。ちなみに、桃園台地は世界でも有数のため池密集地で、台湾行啓は桃園大[土川](農業用水路)の工事のさなかだったこともあり、解説にも力が入ったと推測される。なお、このため池群は現在も数多く見られ、台湾高速鉄路の車窓から眺められる他、台湾桃園国際空港に離着陸する際にも眼下に確認できる。

下車駅となったのは新竹駅で、1913年に完成した駅舎に降りたっている。この駅舎は直線を多用したドイツ風バロックと呼ばれるスタイルで、基隆、台中と並び、台湾の三大駅舎に挙げられていた。現在もその姿を保ち、東京駅丸の内口駅舎と姉妹駅協定を結んでいる。

◆新高山に対し、次高山を命名

新竹を出た一行は台中に向かった。その途中、車中で台湾第二の高峰シルビヤ山の説明を受ける。標高は3886メートル。台湾第一の高峰である新高山(現称・玉山)を明治天皇が命名したことを受け、これを「次高(つぎたか)山」と名付けた。その後、台中に1泊した後に台南を目指している。途中、嘉義駅通過後には北回帰線標を車窓に眺めている。

台南の宿泊所となったのは台南州知事官邸だった。皇太子宿泊所が現存するのは台北と台南だけで、史跡の指定を受けている。館内の見学も可能で、古写真やパネル展示がある。市民の関心は高く、台南市内の行啓地点を紹介したパンフレットが用意され、そのコースを巡る旅が人気を集めている。

高雄市内を21日に視察し、翌22日は屏東にある台湾製糖株式会社の工場を訪ねている。ここでは特設休憩所で台湾特産の麻竹に新芽を発見。これは後に「瑞竹」と称揚されるようになった。工場はすでに操業を停止しているが、施設の一部が産業遺産として保存されている。

また、この日は打狗(高雄)山と呼ばれていた丘に登頂し、高雄の町並みと港を眺めている。この視察を記念して後日、打狗山は「寿山」と改名された。ここは現在も高雄を代表する景観スポットとなっており、行楽客でにぎわっている。

23日は高雄港から澎湖島の馬公へ渡った。海軍の要港部を視察後、船中泊で基隆へ向かい、台北に戻った。

当時の交通事情を考えると、行程はかなり詰まった印象だが、遅れが生じることはほとんどなく、順調に最終日となる27日を迎えた。午前7時10分、皇太子を乗せた特別列車は台北駅を離れ、基隆へと向かった。

◆貴賓車は今も残されている

台湾行啓では特別列車が仕立てられた。列車をけん引したのはE500型蒸気機関車と呼ばれたものである。日本では8620形と呼ばれる形式で、台湾には44両、在籍していた。列車は8両編成で(機関車を含まず)、山岳区間となる苗栗〜后里間は最後部に補機を増結して勾配に挑んだ。

車両についても、貴賓車と称されるものが用意された。台湾総督府鉄道部には2両の貴賓車が在籍し、皇太子行啓に合わせて新造された「ホトク1」、そして、台湾総督専用の「コトク1」があった。

両客車ともに日本本土から派遣された技師が設計し、用材には紅ヒノキと米国から輸入された松が用いられた。鋼鉄類についても欧米から輸入されたものだった。

車体は紫色に塗られ、側面に菊の紋章がはめ込まれていた。また、台湾南部での暑さを考慮し、当時としては非常に珍しい扇風機が設置されていた。

皇太子用に新造されたホトク1型は1913年3月に完成した。車体長16・4メートルの木造客車で、客室の他、配膳室と従者の控室があり、トイレは洗面台が壁に埋め込まれたスタイルだった。また、車内には明治の画家・川端玉章の蒔絵(まきえ)が掲げられていた。

台湾総督用のコトク1型は1904年10月に完成した。車体長は13・988メートルで、客室の他、食堂、配膳室、洗面室、化粧室、予備室を備えていた。

現在、この2両の貴賓車は台北郊外の七堵操車場に保存されている。専用の車庫が用意されており、その中に並べられている。一般公開されるのは特別イベントの際に限られるが、公開が決まると、決まって申し込みが殺到する。

車齢100年という長さを考えてみると、この客車が原形を保っているのは奇跡に近いと言えよう。特に台湾総督用のコトク1型客車は110年以上の歴史を誇り、その価値は計り知れないものがある。台湾鉄路管理局はこの2両の客車を歴史遺産として扱い、永遠に守っていく予定だという。

台湾では民主化の進行に伴い、冷静でかつ、客観的な評価の下、日本統治時代の半世紀を捉える動きが定着している。皇太子の台湾行啓もまた、台湾史の一部として認識されており、関心は高い。日本人が知らない日本の歴史。台湾で皇太子の足跡を訪ねてみてはいかがだろうか?

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片倉 佳史  KATAKURA Yoshifumi
台湾在住作家。1969年神奈川県生まれ。早稲田大学教育学部在学中に初めて台湾を旅行する。大学卒業後は福武書店(現ベネッセ)に就職。1997年より本格的に台湾で生活。以来、台湾の文化や日本との関わりについての執筆や写真撮影を続けている。分野は、地理、歴史、言語、交通、温泉、トレンドなど多岐にわたるが、特に日本時代の遺構や鉄道への造詣が深い。主な著書に、『古写真が語る 台湾 日本統治時代の50年 1895―1945』、『台湾に生きている「日本」』(祥伝社)、『台湾に残る日本鉄道遺産―今も息づく日本統治時代の遺構』(交通新聞社)等。

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