「大和の息子」として密葬に参列した井上和彦氏(井上氏のFBより)

昨年、正論新風賞を受賞したジャーナリストの井上和彦( いのうえ・かずひこ)氏と蔡焜燦先生の縁も浅からぬものがある。蔡先生は「日本の息子」 と呼んでかわいがっていた。

1990年代終わり、台湾を訪れた井上氏を烏来の高砂義勇隊慰霊碑まで案内されたのが蔡先生だった。それ以来のご縁だという。蔡先生の名著『台湾人と日本精神』 が日本教文社で販売停止措置を受け、その後、 小学館文庫から2001年9月に出版されているが、 尽力した一人が井上氏だと漏れ聞く。

井上氏が2005年夏に『親日アジア街道を行く』を出版した折、来日されていた蔡先生は、井上氏がキャスターをつとめる日本文化チャンネル桜にゲスト出演されていた。

井上氏は、8月4日発売の月刊「SAPIO」9月号の巻頭「「 SAPIO’S  EYE」で蔡先生を悼む一文を寄稿している。下記にご紹介したい。


愛日家「老台北」が残した日本人への遺言  井上 和彦

【月刊「SAPIO」9月号「SAPIO’S  EYE」:2017年8月4日発行】

一週間前に国際電話でお話しし、激励を受けたばかりだった。“ 愛日家”蔡焜燦(さいこんさん)氏が7月17日に台北の自宅で亡くなった。90歳だった。

蔡焜燦氏──司馬遼太郎氏の著書『街道をゆく 台湾紀行』(朝日新聞社)で、司馬氏の案内役を務め、司馬氏との軽妙なやり取りが読者を惹きつけた。 司馬氏をして「博覧強記の人」といわしめ、そして“老台北”(ラオタイペイ) として人気を博した蔡氏の死は日台両国にとって大きな損失である。

蔡焜燦氏は、日本統治時代の昭和2年(1927年) に台湾中部の台中州(現・台中市)に生まれ、彰化商業学校を卒業した後、 志願して岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊に入校する。その後、 日本が敗戦して台湾に復員した蔡氏は、 学校の体育教師を務めたのち実業家に転身して半導体のデザイン会社などを経営した。だが蔡氏は、 こうして築いた財を日台交流のために惜しみなく投じて両国の人材育成につとめたのだった。

蔡焜燦氏は、こよなく日本を愛し、自ら、“親日家”を超える“ 愛日家”と称して日台交流の中心的役割を果たしてきた。 これまでどれほど多くの日本人が彼を訪ねていったことか。

実業家でもあった蔡氏は、日本統治時代の第4代台湾総督・ 児玉源太郎の民生長官を務めた後藤新平の遺訓「金を残す人生は下、事業を残す人生は中、人を残す人生は上」を胸に刻んで、将来の日台交流を担う人士の育成に取り組んできたのだ。

日本からの客人を迎える蔡氏は、 決まって一流レストランで一流の台湾料理を振舞い、そして軽妙な語り口で日本人が知らない感動的な日台交流秘話を披露して客 人を感動の渦に包み込むのだった。

これまで私も、 数多の日本人を蔡焜燦氏に紹介して宴席を共にしてきたが、 感動のあまり涙を流す者も多かった。そうして会食が終わる頃には、皆はもれなく台湾が好きになり、なにより日本人としての誇りを取り戻して日本が好きになっていたのである。 その技はまさに“老台北マジック”ともいうべきものだった。

そしてそんな宴席で蔡氏はいつも皆にこう投げかけた。

「日本人よ、胸を張りなさい!  そして自分の国を愛しなさい!」

蔡氏は、半世紀にわたる台湾の日本統治時代を高く評価する。 日本政府は莫大な金額を投じて、道路や鉄道などのインフラ整備をはじめ、 台湾人のための医療機関や学校の設置などを行った。このことによって台湾はまたたく間に近代化されていったのだった。 蔡氏は、とりわけ当時の日本の教育が今日の台湾発展の基礎を築いたと称賛する。

台湾ではいまでも、「勤勉で正直、そして約束を守る」 などもろもろの善いことを“日本精神”(リップンチェンシン)と呼んで語り継がれている。蔡氏は、 台湾人がもっとも尊ぶ日本統治時代の遺産こそ、「公」 を顧みる道徳教育などの精神的遺産だとし、それゆえに台湾人はどの国の人々よりも日本を愛し尊敬しているのだという。

だが蔡氏は、最近の日本人は、そんな先人の遺した“日本精神” を失いかけているのではないかと嘆くこともあった。蔡氏は、 国際社会における日本の弱腰姿勢に苛立ちを覚え、また現代日本人の精神的荒廃に心を痛めていた。蔡氏はこううったえる。

《かつての日本人は立派だった。 公職に就く者の心構えは民衆の絶大な信用を集め、人の生命を預かる者の使命感に人々は崇敬の念をいだいたものである。今一度、 故きを温ね日本人が世界に誇った「魂」を学ぶべきであろう》(『台湾人と日本精神』)

そしてなにより、蔡氏は、現代の日本人が先人への感謝を忘れ、 日本人としての誇りや気概を失いかけている現状を憂いていたのである。

蔡焜燦氏は、“遺言”を新装著書『台湾人と日本精神』(小学館) のあとがきにこう残していたのだ。

《私は死ぬまで日本と日本人にエールを送り続ける。 自虐史観に取り付かれた戦後の日本人に、かつての自信と誇りを取り戻してもらいたいのだ。

(中略)何度でも言わせていただく。

「日本人よ! 胸を張りなさい!」

 愛してやまない日本国と日本人へ、私からの“遺言”である》