洪坤山氏の著書の表紙から。人力車に座るのは夫人。

平成24年(2012年)1月、 ブリヂストンサイクル会長や日本会議副会長を務められた、 本会顧問の石井公一郎氏が企画し、文芸評論家の桶谷秀昭氏の監修により『 今昔秀歌百撰』(菊判、上製、218頁)が文字文化協會から上梓された。

桶谷氏の「序」によれば、「二千年の歴史をもつ和歌が、 明治文明開化期と昭和の敗戦といふ二つの外壓に堪へて今日に生きてゐることに、 わが國語のしなやかで、つよい生命への想ひを噛みしめようとする」こころみの下に刊行されたという。

古事記、 万葉から現代にいたる和歌101首が100人の評者により、 1首を2頁見開きで解説している、優れた和歌の鑑賞と批評の書だ。

解説は歌人や和歌の研究者は少なく、歌人は福永眞由美さん( 不二歌道会)や椿原直子さん(風日社同人)、森田忠明氏(日本歌壇)などを散見するだけで、 小堀桂一郎、田中英道、平沼赳夫、稻田朋美、小田村四郎、高島俊男、岡崎久彦、 高池勝彦といった方々が評されている。それが本書の特徴でもある。

実は、評者の一人に7月17日に亡くなられた蔡焜燦先生も「 台湾歌壇」代表として寄稿されていた。取り上げられた歌は、台湾歌壇の同人だった故洪坤山氏の「 北に対(む)き年の初めの祈りなり心の祖国に栄えあれかし」で、101首中97首目だった。

洪坤山氏は蔡先生と義兄弟の契りを結んでいた弟分で、 義兄弟の契りを結んで半年後に亡くなられている。台湾歌壇の紹介でもあるが、 洪氏へのレクイエムとなっている。

本書は一般書店で取扱われなかったので、 ほとんど知られていないかもしれない。蔡焜燦先生をつらつら思い出していたらこの寄稿文があったことを思い出した。 本書が上梓された年の4月に本会メールマガジン『日台共栄』でご紹介したことがあるが、 ここに寄稿されたままの原文をご紹介したい。

この寄稿文には見出しが付いていない。 すべて取り上げた和歌が見出しとなっている。そこで、本誌掲載にあたっては「洪坤山の眼光」 としたことをお断りしたい。

◆文字文化協會ホームページ

*一般書店では取扱いがありませんので、 本書をご希望の方は文字文化協會事務局(メール:chair@pcc.or.jp)へお申込みください。 実費頒布価 1,100円(税込)


  北に対(む)き年の初めの祈りなり心の祖国に栄えあれかし   洪 坤山

少年のやうに澄んだ瞳の洪坤山(こう・こんざん)。 満身病気の巣窟のやうな状態の洪坤山ではあつたが、日本のこと、 短歌のことになると瞳をキラキラ輝かせて急に活気づいてくる。 晩年、人工透析をしながらも桜前線を追つて、 夫婦で日本を南から北へと旅したのも、日本をこよなく愛すればこそで、「不思議ですよ、 日本へ着くとすつかり元気になるのだから」 と奥さんを喜ばせてゐた。

  わが波乱の人生のそのひとコマに大和村なる少年期の日

洪坤山は、戦局厳しい昭和十八年に、 働きながら学ぶといふ名目で試験を受けて十三歳で海軍軍属として日本内地へ渡り、戦闘機の製作に従事した所謂「 台湾少年工」であつた。

少年工の日々は苦しいことばかりで、 約束の卒業証書も貰へぬまま日本の敗戦で軍隊は解散、八千四百人の台湾の青少年たちは異郷の地に置き去りにされ、 自分たちで帰台の道を画策し、日本ではなくなつた故郷の台湾へ帰つて来た。

国籍も国語も変つた台湾で、 帰国した青年たちの生活は辛酸を極めたが、彼らは後に「台湾高座会」を組織して台日の民間交流では最大の団体となつてゐる。

日本時代に台湾に生まれた私たちは生まれながらの日本人であり、 教育を受け、日本精神を教へられてそれを誇りにしてきた。 私自身も岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊に入学した身であり、読書も思索も日本語であり、寝言までもが日本語であつた。日本語、 日本の心の美しさに魅せられて和歌を楽しむ人たちもかなりゐた。

「台湾歌壇」の前身「台北歌壇」 を創設した孤蓬万里こと呉建堂氏は、次のやうな短歌を詠まれてゐる。

  万葉の流れこの地に留めむと生命(いのち)のかぎり短歌(うた) 詠みゆかむ

この歌のとほりに、 台湾歌壇の同人たちは命の限り今も短歌を詠い続けてゐる。 今でも日本を心の祖国と思ふ日本語世代は多い。

冒頭の洪坤山の短歌は、 作家阿川弘之氏が奥様に呼んで聞かせようとして「涙が溢れ出し、 声がつまつて、説明が説明にならなくなつた」と「文藝春秋」 の巻頭随筆「葭の随から・七十六」に書かれてをり、 これがきつかけとなり洪坤山は阿川氏とご縁が結ばれたことを大変 喜んでゐた。

  初対面にわが手を固く抱きかかへたる阿川氏の温み今も残れる

阿川弘之氏のご自宅を訪問した時の歌である。

七転び八起きの波瀾の人生の最後に、 洪坤山は自分が一番やりたかつたことにやつと専念できるやうになつたのだが、その時には様々な病気が巣食ひ、 顎の骨を折つて会話もままならぬ状態であつた。だが、彼は熱心に和歌を詠んだ。『闘病の日々』 といふエッセイと短歌を集めた著書も上梓した。

また、台湾の歴史を勉強してゐた。 子孫に正しい台湾の歴史を残したいといふ願ひをもつてゐたからだ。ただの歌詠みではなく、台湾を愛し、 日本を愛する熱血の人であつた。花を愛した洪坤山だつたが、彼のエッセイの中に「 山茶花の様に最後の一ひらまで生きたくもない。ひたすら桜の様に潔く散っていく事を願うのみである」と書いてあり、 桜の季節に潔く散つてしまつた。

義兄弟の契りを結んで僅か半年の短い期間ではあつたが、 私はこの弟を誇りに思ひつつも、なぜもつと長生きしてくれなかつたかと悔しい想ひが過ぎるのである。

  弟よ国の行く末語る時汝が眼光の炯炯たりしを         蔡 焜燦

尚、 本年三月十一日の東日本大震災に際して台湾の人々が非常に関心を 持ち、救援物質、義捐金等を送つてかつての日本の同胞から感謝されてゐることもさること ながら、六十六年来、すでに異国になつてゐる台湾の人々の大震災に際して詠んだ和歌も、 日本の人々の感動を誘つてゐる事実を書き留めておきたい。

  国難の地震と津波に襲はるる祖国護れと若人励ます       蔡 焜燦