20161112-01李登輝総統が曾文恵夫人やご長女の李安娜さん親子、令孫の李坤儀さんご夫妻などご家族と一緒に、7月30日から沖縄県石垣市を訪問、講演会やレセプションなどに臨まれました。総統を退任されてから8度目、3年続けてのご来日となり、8月3日、お元気に帰台されました。

7月31日にANAインターコンチネンタル石垣リゾートにおいて開催の講演会には、ハイシーズンで離島にもかかわらず500人以上が参加、日本全国のみならず、台湾からも参加していました。

李登輝総統はこの講演録に大幅な修正を加え、9月10日発売の月刊「Voice」10月号に寄稿されました。

去る11月7日、月刊「Voice」のホームページに寄稿された論考がアップされました。いささか長いのですが、この論考は一気に読んでいただくのがベスト。ここに全文をご紹介します。


日台連携で世界市場へ─「第4次産業革命」は日台運命共同体が主役! 李登輝

【月刊「Voice」10月号】

◆台湾と石垣島のつながり

今年の7月31日、石垣島(沖縄県石垣市)で「石垣島の歴史発展から提言する日台交流のモデル」と題する講演を行なった。まず、石垣島で講演を行なった経緯から述べたい。5月2日、全国青年市長会の会長を務める吉田信解氏(埼玉県本庄市長)と副会長の中山義隆氏(石垣市長)の2人が私を訪ねてくれ、「未来の日本を背負う、若い人たちに向け、ぜひ石垣島で講演をしてほしい」という熱心なご招待を受けた。全国青年市長会とは、当選時に49歳以下の市長で構成される組織である。新しい時代を切り拓くため、会員同士の若い情熱とエネルギーをぶつけ合い、地方自治の発展に寄与しようという熱い志をもった全国の若い市長の集まりだという。

会長の吉田市長は現在、日本李登輝友の会の理事を務めるほか、早稲田大学在学中に国立台湾師範大学に語学留学していた経験があった。ちょうど1990年前後で、私が現役の総統だったころである。吉田市長は、民主化推進や国是会議の開催を求める野百合学生運動を目の当たりにしたこともあり、台湾の民主化や私の発言に関心を寄せてきてくれたそうだ。

昨年7月、私が日本の国会議員会館で講演した際も、吉田市長は会場におり、「ぜひ来年は、若い首長や地方議員たちに向けて講演してほしい」と考えたのだという。

じつは石垣市は、沖縄県のなかでもとりわけ台湾との縁が深い。日本時代から多くの台湾人が移民として石垣島に移り住んできた。戦中戦後を通じて、パイナップル産業をはじめとする農業などの分野で、台湾人が大いに貢献したことは私も知っていた。

そこで私は、お2人の市長の熱い気持ちにほだされて講演をお引き受けすることにしたのである。さらにいえば、近年は「石垣牛」がブランド和牛として全国的にも認知されてきており、地理的にも気候的にも似通っている台湾の牛肉産業の参考にもなるかもしれないと考えた。ぜひ「石垣牛」についても理解を深めたいと思ったのである。

◆台湾から持ち込まれたパイナップル栽培

石垣島と台湾の密接な関係は、台湾が日本の統治下に組み込まれてから、間もなく始まった。台湾と日本の内地を結ぶ航路が開設されたことで、石垣島は日台間の貿易や人の往来におけるハブ機能を担うことになった。

1930年代には台湾中部から大量の移民が石垣島へやって来た。彼らが主に持ち込んだのは、パイナップルの栽培と缶詰製造の技術、そして農作業を手伝ってくれる水牛たちである。

当時の台湾では、すでにパイナップルの栽培が一大産業となっており、缶詰の製造輸出で財を成した人も多くいた。ところが、多くのパイナップルの栽培や加工に携わる会社が林立したことで、台湾総督府は統合政策を進めた。その結果、パイナップル産業に携わっていた人びとが新天地を求めて石垣島へやって来たのである。

幸いにも、開墾された土地は肥沃で水はけも良かった。パイナップルの栽培に適していたこともあり、台湾の人びとに支えられた同産業は飛躍的に成長した。戦前の石垣島の経済を支える柱の一つとなったのである。

大規模な開墾の一翼を担ったのが、台湾から持ち込まれた水牛である。水牛は一頭で人間の3人分、5人分の働きをするため、人力に比べて数倍のスピードで開墾を進めることが可能であった(台湾人の勤勉さを表すときに用いられる「水牛精神」は、こうした水牛の働きから来ている)。

現在では、水牛が耕作に用いられることはないが、当時台湾から持ち込まれた水牛の子孫たちが石垣島付近の離島で水牛車を引っ張り、観光客を喜ばせているという。

◆戦後の復興と融和

大東亜戦争の激化によって、パイナップル産業に従事する人口は減少し、一時的な衰退に見舞われた。さらに日本の敗戦によって、石垣島と台湾とのあいだに国境線が引かれることになった。

しかし、石垣島と台湾の深い結び付きが途絶えることはなかった。戦争によって衰退した石垣島のパイナップル産業を復興に導いたのは、石垣島に残留することを決めた台湾の人びとだったのである。

パイナップル産業を復興させようとする台湾の人びとを中心として、沖縄本島などから大量に流入した開拓移民の協力も重なり、1950年代にパイナップル産業は完全に復活し、大きなブームを呼び起こした。

産業の成長にともない、パイナップルの生産量も右肩上がりに増加していった。ただ、当時はパイナップルの加工技術が未熟だったことに加え、労働力不足も関係して、缶詰の製造量がパイナップルの生産量に見合っているとは言い難い状況であった。こうした状況を解決したのも、台湾の人びとであった。

当時、すでにパイナップルの缶詰の加工技術が確立していた台湾から、栽培や缶詰加工の指導者を呼び寄せることで、技術の向上と作業の効率化が図られた。缶詰加工の分野において、台湾から多くの熟練者が石垣島へ渡ったのである。こうした「技術導入」によって、石垣島の労働者のパイナップル栽培や缶詰加工技術が飛躍的に向上した。台湾から指導に渡った人びとの勤勉さや誠実さ、技術力は高く評価されたと聞いている。

こうした状況は、戦前には時として脅威と捉えられたこともある台湾からの移民の人びとと、石垣島の人びととの共生につながったのである。

いまや石垣島を代表する果物となったパイナップルは、台湾からやって来た人びとがマラリアと闘い、地元の人びととの融和を探りながら根付かせたものである。戦前から戦後を通じ、台湾から石垣島へ渡った人びとが言葉にできない苦労を重ね、今日の発展に繋がった努力を私も一人の台湾人として誇りに感じている。

それと同時に、石垣島の人びとが台湾からやって来た人びとと融和し、今日の石垣島において共存共栄していることに感謝を申し上げたいと思う。

◆「第4次産業革命」を起こす技術

こうした石垣島と台湾の歴史的な繋がりを一つのモデルとして捉えることで、日台関係をよりいっそう深化させるための方策が見えてくる。日台がお互いに手を携えて協力してきた分野は、これまでの農業技術の分野などから、現在の工業化、情報化、高齢化といった社会の情勢を踏まえ、さらに広がりつつある。

たとえば、ガン治療技術である。私は四年前に大腸ガンが見つかり、手術をしたことがあった。台湾における死亡原因は、日本と同じくガンが1位である。手術が無事に成功したあと、私は最先端とされる日本のガン治療技術を台湾にも導入したいと考え、積極的に働きかけてきた。その甲斐あって、台北の病院に日本の重粒子治療設備を導入し、2年後に治療を始める計画が進められている。

また、私は今年7月、日本で『日台IoT同盟』(講談社)という本を出版した。イェール大学名誉教授の浜田宏一先生との対談をまとめたものである。

この本のテーマになっている「IoT」とは「Internet of Things」の略。簡単にいえば、従来はインターネットを利用するためにはパソコンや携帯電話を使わなければならなかった。だがIoTは、それこそ身の回りにある、あらゆる製品を対象にしている。すなわち、あらゆる製品に埋め込まれたセンサーがネットに繋がることによって、新しいサービスや仕組みが生まれるのだ。私たちの日常生活すら一変させかねない革新的技術で、世界の企業が開発を競い合っている。

私は、「モノとモノを繋ぐインターネット技術」であるIoTがそれこそ「第四次産業革命」となって、世界の産業を大きく改変する潜在力を秘めていると確信している。そこで数年前から、このIoTを経済の起爆剤として用いるように提言してきた。

すでに、日本でもいろいろなところでIoTの試みが行なわれている。ハイテク産業とは程遠いようなイメージがある農業でも、IoTが活用されていることから、これからの石垣島と台湾との交流、とくに経済交流について参考となるものが少なくないと考えている。

◆研究は日本、製造は台湾

この夢のような技術であるIoTにも問題点がある。

「日本には優れた技術はあるが、なかなか事業として成立させられない」

これは、あるアメリカ人の技術者が漏らした一言である。台湾と日本がいかにして経済交流を深化させていくかを考えたとき、じつに示唆に富んだ言葉である。

IoTの分野において、日本の技術はたしかに世界のなかでも先行している。ところが、その技術の多くが自社内に閉じこもったサービスのため、事業化や世界展開に困難があるのだ。

その点、台湾はグローバル市場のニーズに応じて、半導体などの部品を大量に生産する技術に優れている。私が総統だったとき、巨額の出資によって半導体の生産体制を構築した。現在、台湾ではこれを基礎にした半導体製造会社が10社ほどあり、IoT用半導体の開発を行なっている。

このように、日本企業の研究開発力と台湾の生産技術が力を合わせれば、世界市場を制覇することも夢ではない。日本経済は再び成長路線に乗ることができるだろう。台湾がIoTの一大生産拠点になれば、雇用も増える。GDPの伸び率も3~4%は維持できるだろう。

こうした日台間の協力関係は、石垣島における戦前や1960年代のパイナップル産業の導入のかたちをほうふつさせる。あの当時、パイナップルの栽培や加工に一日の長があったのは台湾であった。そこで「技術導入」というかたちで、台湾人は石垣島のパイナップル産業を助けたのである。

今後、日本がIoTを軸とした経済政策を打ち出すのであれば、優れた生産技術をもつ台湾との協力は不可欠となろう。また台湾から見ても、IoT政策を進めるのであれば、日本の先行研究を抜きにしては語れない。

ここに、研究は日本、製造は台湾という――まさに石垣島における農業の発展に台湾からの移民の人びとが大きく寄与したのと同様に――日本と台湾が手と手を取り合うようにして連携し、経済協力の深化を進めていく形が生まれるのである。

◆これからも運命共同体として

台湾も日本も、共にアジアで最も民主化の進んだ国家である。人権や平和を重んじるなど、共通の価値観を有しているうえ、両国とも四方を海に囲まれた島国であるなど、利害が一致するところが多くある。

私がこれまで何度も繰り返し強調してきたように、台湾と日本はお互いに運命共同体である。日台間には正式な国交がないながら、経済面や文化面において非常に密接な関係を維持し続けてきた。

99年、台湾で9・21大地震が発生した際、真っ先に台湾に駆けつけ、救助を行なってくれたのは日本の救助隊である。現地入りした小池百合子都知事(当時、衆議院議員)の活動は、台湾ではよく知られている。

さらに、2011年の東日本大震災の際、世界で最も多くの義援金を届けたのは台湾であった。この義援金は、政府が主導した結果ではない。台湾の人びとの日本に対する思いが自然と表れたものなのである。

これからも台湾と日本は運命共同体として、密接な協力関係をいっそう深化させていかなければならない。いまや、このことに異を唱える者はいないと思う。

最後に、私の石垣島初来島を受けて、台湾南投県から5歳のころに石垣島に移住した湯川永一氏(琉球華僑総会八重山分会会長)は、「李登輝元総統の来島はオバマ米大統領の広島訪問と同じくらいの出来事」と評していると聞いた。まことに光栄に感じる次第である。同島の名蔵ダムに立つ台湾農業者入植顕頌碑は、台湾と石垣の融和の象徴として、また台湾と日本の絆と友好の証しとして、両国の針路を永遠に照らし出してくれるものと信じる。(本記事は『Voice』10月号に掲載した記事を抜粋、編集したものです)