李登輝総統は来日されると、櫻井よしこ氏と歓談することを楽しみにされている。昨年7月、現役の大臣2人を含む国会議員40人が発起人となった「李登輝先生の講演を実現する国会議員の会」が招聘した際も、7月22日に宿泊先のザ・キャピトルホテル東急で櫻井氏と歓談されている。
櫻井氏も、訪台すれば必ず李元総統を訪ねている。昨年9月半ば、当時、元台北駐日経済文化代表処代表の羅福全氏が理事長をつとめていた台湾安保協会の国際シンポジウムで基調講演者として招かれた際にも、9月18日にご自宅を訪ね歓談している。
このときの歓談は、月刊「WiLL」12月号が特別対談「台湾が感動した安倍総理のひと言」として掲載している。
また、櫻井氏は「週刊ダイヤモンド」2015年10月3日号でも、李登輝総統との対談内容を「李登輝元台湾総統が語る『本当に頼れる国は日本』」と題して寄稿していた(下記)。
櫻井氏が「ダイヤモンド・オンライン」に連載している「櫻井よしこの『論戦』─ 凛たる国家へ 日本よ、決意せよ」(第9回)の8月23日号は、櫻井氏がこのときの対談に、本会が本年6月26日に靖國神社で開催した「六士先生・慰霊顕彰の集い」のことを加筆して掲載している。
この対談で、李総統が櫻井氏に「日本人があまり知らないかつての日本人の功績」として、芝山巌事件の六士先生の事績について語ったことを、櫻井氏は深い感銘をもって受け止めていた。いままた櫻井氏は改めて六士先生の事績を通じて日台の絆の深さに言及した。靖國神社のご祭神として祀られる六士先生も、櫻井氏の真心の籠ったこの一文を嘉されているに違いない。
◆李登輝台湾総統が語る「本当に頼れる国は日本」【週刊ダイヤモンド:2015年10月3日号】
台湾元総統が語る「本当に頼れる国は日本」 ─李登輝氏との対話から
櫻井よしこの「論戦」─ 凛たる国家へ 日本よ、決意せよ(第9回)
【ダイヤモンド・オンライン:2016年8月23日】
台湾にとって「本当に頼れる国」は日本である――台湾元総統・李登輝氏は言う。「日本人はもっと誇りを持つべきだ」と主張する同氏が、かつて日本人が台湾にもたらした功績について語ってくれた。人気ジャーナリスト・櫻井よしこ氏の最新刊『凛たる国家へ 日本よ、決意せよ』の中
から紹介していこう。
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◆李登輝元総統の教育改革「認識台湾」
アメリカが「世界の警察」ではないと宣言し、中国が力に任せて膨張する中、中国不変の最大の狙いが台湾併合である。これまで台湾の強力な後ろ盾だったアメリカだが、実は中国との外交取引の中で、台湾擁護の政策は複数回にわたって揺れてきたというのが、台北にある国立清華大学アジア政策センターの主任教授でアメリカ人のウィリアム・スタントン氏の主張だった。
どこから見ても台湾はかつてない深刻な危機に直面している。その台湾が最終的に頼れる国はどこか。国民党の馬英九総統(当時)は明らかに中国だと考えている。国民党と対立する台湾人の政党で最大野党(当時)、民主進歩党(民進党)はアメリカと日本だと考えている。
しかし、日米両国への信頼については、民進党内でも世代間格差があると指摘するのが、李登輝元総統である。
2015年9月18日、台北のご自宅で2時間半余り、お話を聞いたが、李元総統はご自身より一世代若い台湾人は国民党の反日教育で育っており、自分の世代とは対日感情が違うこと、その代表が民進党の陳水扁総統だったという。
「私が総統になって最初に取り組んだのが教育です。台湾人でありながら国民党支配下の台湾人は、子どもに自分たちは台湾人であることを教えられなかった。学校の歴史の授業は中国のことばかり、地理も中国の地理です。私はそれを『台湾を知ろう!』と呼び掛けて、子どもたちに台湾の歴史や地理を教えるため、教科書も新しくしました」
李元総統主導の教育は「認識台湾」と呼ばれる。台湾人として李氏の後継総統となった陳氏は、この台湾回帰を鮮明にした教科書をやめてしまったというのだ。
「彼は日本の教育を受けていないから、そのよさを知らないのです。反日教育が効いているのです」と、李元総統は明言する。
22歳まで日本人として過ごし、いま92歳の李元総統は、70年間、(国民党の)中国人と暮らしてきた。国民党の蒋介石主席(当時)の長男、蒋経国氏に引き立てられた。経国氏が総統に就任すると、李氏は副総統に指名された。なぜ、中国人ではない台湾人の李氏が引き立てられたのか。李元総統はこう断言した。
「正直で真面目だからです。とても日本的だからです。蒋経国は中国社会でもまれて、ロシアで暮らし、中国人、ロシア人について何でもよく知っている。その彼が中国的でもロシア的でもない極めて日本的な私を選んだ」
李元総統は日本人は誇りを持てと私を励まし、日本人があまり知らないかつての日本人の功績について語った。
「日本人が台湾総督府を開設したのが、日清戦争後の1895(明治28)年。日本の台湾統治開始から約半年ほどしか過ぎていない7月には、早くも芝山巌に最初の学堂として国語学校が造られ、6人の教師が赴任しました」
日本はこのときから50年間台湾を植民地として支配したが、現地の人々に教育を徹底させるところから植民地統治を始めた国は、日本をおいて他にない。植民地支配を肯定する気は毛頭ないが、それでも、日本国政府も国民も、教育を通して相手国を成長させたいと望んでいたことは評価してよいだろう。
日本から派遣された6人の教師は楫取道明、関口長太郎、中島長吉、井原順之助、桂金太郎、平井数馬各氏だった。6人の教師は1896(明治29)年、総督府での新年の会に参加すべく、早朝、芝山巌の学校を出発した。その途上、現地住民の襲撃を受けて全員が殺害された。
6人の師は台湾では「六士先生」と呼ばれており、六士先生を悼む記念館が芝山巌学堂跡に建てられた。いまでも毎年2月1日に供養の法要が営まれている。惨殺の悲劇を超えて、芝山巌は日本が台湾人教育に力を注いだ証しとして大切に保存されている。日台の絆の深さを示す歴史がここにあると感じた。(『週刊ダイヤモンド』2015年10月3日号の記事に加筆)
◆〈追記〉「六士先生・慰霊顕彰の集い」でのこと
2016年6月26日、靖国神社で「六士先生・慰霊顕彰の集い」が開かれ、楫取道明先生のお孫さんである元拓殖大学総長の小田村四郎氏が想い出を語った。92歳になられた小田村氏がまだお元気なうちにいろいろとお聞きしたいという周囲の声を受けての講演会だった。
1895(明治28)年、日清戦争に勝利した日本は、4月17日に締結された日清講和条約によって清国から台湾を割譲され、台湾統治に乗り出した。わずか2ヵ月後の6月14日に、東京師範学校校長を務め文部省学務部長心得となった伊澤修二らが台北に着任した。台湾総督府始政式の翌日の18日、早くも学務部事務を開始し、約ひと月後の7月16日には芝山巌学堂において台湾人伝習生に国語の伝習を開始した。日本の統治はまさに地元民への教育から始まっていた。芝山巌学堂は台湾近代教育発祥の地なのである。
しかし、台湾はまだ政情不安の地であり、匪賊も多く、日本人は金持ち民族として狙われていた。そうした中で、日本人教師たちは「身に寸鉄を帯びずして群中に入らねば、人々の教育などできない」という信念を捨てなかった。芝山巌の学堂は、行ってみれば山上にある。賊が襲おうと考えれば、いくらでもその余地がある自然の中だ。それでも楫取らは教育に打ち込んだ。そして約半年が過ぎ、本文でも触れたように、総督府での新年の祝賀に参列しようと山を下り始めたときに襲われた。
日本李登輝友の会の柚原正敬氏の資料によると、100人ほどの匪賊に取り囲まれた6人の教師は、賊に諄々と道理を説いたという。賊は耳を貸すことなく全員を殺害したが、日本の教師たちの台湾人に対する献身は台湾人たちがよく知っていた。台湾の人々は、李登輝元総統が私に語ったように、今でも芝山巌を「台湾教育の聖地」と呼ぶ。
小田村氏は、祖父の楫取道明を含めて日本人全員が、台湾の治安及び教育に一生を捧げる覚悟だったと思うと語った。6人の災難が台湾人に感銘を与えたことは、そうした覚悟が自ずと伝わっていたからではないかとも語った。
六士先生が台湾で教育に身を捧げ始めた当時、児童の就学率はとても低かった。統計の残っている1899(明治32)年で2.04%である。それが日本統治終了の前年、1944(昭和19)年では92.5%である。日本がいかに教育に力を入れていたかがこの数字からも明らかだ。
六士先生はいま全員、靖国神社に祀られており、日台両国を見守っている。