明治に入ってからの日本と台湾の出会いは不幸だった。それは、宮古島の住民ら54人がパイワン族に殺害された「牡丹社事件」に象徴される。この事件がきっかけとなり、日本の台湾出兵となり、日本は清国から台湾を割譲され、台湾は日本の統治下に入る。

近年になって一度は和解した宮古島のご遺族と台湾側だったが、牡丹社事件の説明に宮古島側が不満をもっていて、それがノンフィクション作家の平野久美子さんの仲立ちで解決したという。

一見ささいなことのように見えるかもしれないが、ご遺族にとっては事件の記憶は生々しいようで、牡丹社事件から145年の今年、宮古島のご遺族の方々の心がようやく晴れたという。日米との関係を重視する蔡英文政権が発足する直前に解決できたことを心から祝福したい。地元紙の「宮古毎日新聞」が伝えているので下記に紹介したい。

平野久美子さんといえば、『テレサ・テンが見た夢─華人歌星伝説』、『トオサンの桜─散りゆく台湾の中の日本』、『水の奇跡を呼んだ男 日本初の環境型ダムを台湾につくった鳥居信平』など、台湾関係者にはなじみ深い作品が少なくない。【本会メールマガジン『日台共栄』第2639号掲載】

日本時代に建立された慰霊碑(台湾大学電子資料庫より)

現在の慰霊碑の様子。もともと建立された牡丹社雙溪口から明治7年に車城郷統埔村へ移された


錯誤記述の削除が実現/牡丹社事件
「武器持った66人」の箇所/遺族の思い、台湾に伝わる

【宮古毎日新聞:2016年4月8日】

1871年に台湾南東部で宮古島住民ら54人が現地住民に殺害された「牡丹社事件」に関し、台湾の屏東県政府文化処(所)が、同県の公園内に設置されている説明板に記された事件の経緯の一部を削除したことが7日までに分かった。削除されたのは「武器を持った66人の成人男性が部落にやってきた」と記述されている箇所の「武器を持った」という記述。遺族らが長年にわたり、書かれている部分の削除や説明板の撤去を求めていた。

台湾を対象にした作品が多い、ノンフィクション作家の平野久美子さんが、屏東県政府文化処(所)長の呉錦發さんとのメールのやりとりで明らかになった。

平野さんは、牡丹社事件を取材中、遺族らが説明板の記述に心を痛めていることを知った。

平野さんは、以前から屏東県政府や同文化処と取材などを通して親しいことから、「遺族の思いを少しでも理解してもらえれば」との思いで、現地関係者に伝える役目を引き受けた。

今年2月25日から現地を訪問。28日には現地関係者や研究者、さらには呉さんに面会し、遺族側の心情を伝えた。帰国後もメールでやり取りし、台日交流のためにも検証を行うよう依頼していた。

平野さんは「呉さんは、作家でもあり歴史に詳しい。また、牡丹社事件に関心が高いことから、すぐに動いてくれたと思う」と話した。

「宮古島と台湾の人たちが、歴史認識をもとに交流を深めることが大切」と平野さん。「不幸な事件だったが『禍を転じて福と為す』とのことわざにもあるように、宮古島の人たちの遭難事件を台湾交流の礎として、今後は若者を中心にスタディツアーを計画するなど、台湾との絆をさらに深めてもらえれば」と期待した。

牡丹社事件については、2001年に台湾から訪問団が来県。那覇市護国寺に祭られた犠牲者の墓地に参拝し、遺族側に謝罪したことで「和解」が成立している。

一方、説明板の記述をめぐっては原住民に殺害された牡丹社事件から140年に当たる2011年、台湾で開かれた慰霊祭と学術会議で、遺族の野原耕栄さん(上野野原出身、浦添市在)から指摘があった。

会議に出席した学者からも「宮古島住民が武器を持っていたとの文献は存在しない」との発言があり、今後、十分な研究や調査が必要だとしていた。

市議の垣花健志さんは、市議会一般質問で牡丹社事件のことをたびたび取り上げ、市に対し説明板の撤去や削除を台湾側に要請するよう求めていた。

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牡丹社事件
琉球王国時代の1871年、宮古島民の乗った船が首里王府に年貢を納めた帰り、台風で台湾南部の八瑶湾(現九棚湾)に漂着。乗員69人のうち3人は水死し、残り66人は原住民族、パイワン族の集落である高士仏(くすくす)社に助けを求めたが、双方の誤解が重なり54人は殺害された。生き残った12人が助けられ、中国の福建省を経由し那覇に帰った。同事件がきっかけとなり、明治政府は1874年に「台湾出兵」を行った。