本会初代会長をつとめた作家で文化勲章受章者の阿川弘之(あがわ・ひろゆき)氏が8月3日午後10時33分、老衰のため都内の病院で逝去しました。満94歳でした。これまでのご指導に心から感謝申し上げるとともに謹んで哀悼の意を表します。

報道によりますと、後日、偲ぶ会を行う予定だそうですが、日取りなどは未定です。産経新聞が1面で報じていましたので、その記事を下記にご紹介します。

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平成15年(2003年)6月1日、本会の第1会総会で挨拶する阿川会長

阿川先生に日本李登輝友の会会長への就任を依頼する手紙をお送りしたのは、平成14年(2002年)12月15日の設立を1ヵ月半後に控えたころでした。現在の小田村四郎会長や台湾の蔡焜燦先生などとも相談の上でしたが、理事ならお引き受けするが会長は自分の任ではないと断られました。

さてさて設立は迫ってきているし、考えあぐねていてもしょうがありません。蔡焜燦先生に断られたことをお知らせすると「そう、じゃ僕に任せてください」とのこと。すると、折り返すように蔡先生から「大丈夫だよ、御礼を申し上げてください」とのお電話をいただきました。忘れもしない11月18日のことでした。

恐る恐る阿川先生に電話を入れますと「蔡さんから言われたらね、わかりましたというしかありませんから」とのことで会長をお引き受けいただいた次第です。

阿川先生に会長をお引き受けいただいたことで、岡崎久彦氏、中西輝政氏、石井公一郎氏、田久保忠衛氏なども副会長就任を快諾いただき、晴れて12月15日、ホテルオークラ東京で開いた設立総会を迎えることができました。

それから1年余、翌年6月に開いた第1回総会や11月末の「第1回日台共栄の夕べ」、平成16年5月の第2回総会などにも会長として臨んでいただきました。

ただ、阿川先生はこの総会後、「そろそろいいでしょう」と辞意を洩らされましたので、翌年4月に開いた第3回総会で正式に名誉会長に就任され、大所高所からいろいろご指導いただいてまいりました。

本会設立とほぼ時期を同じくして李登輝元総統が名著の誉れ高い『「武士道」解題』(小学館、2003年4月)を出版されています。阿川先生はこのご著書を巡って、本会理事でもあった拓殖大学日本文化研究所所長(当時)の井尻千男(いじり・かずお)氏と『季刊 日本文化』(第13号、拓殖大学日本文化研究所、平成15年7月10日発行)で対談されたことがありました。

対談では、台湾とのご縁や、本会会長に就任したときの経緯などにも触れ、とても楽しそうに話しているのが印象深い対談です。井尻氏も2ヵ月前の本年6月3日に鬼籍に入られました。すでに故人となったお二人ですが、台湾に深い関心を寄せていることがよく分かるとても優れた対談ですので、お二人を偲ぶ縁(よすが)となればと思い下記に掲載します。


李登輝『「武士道」解題』を読む

阿川 弘之(作家・日本李登輝友の会会長)
井尻 千男(拓殖大学日本文化研究所所長)

◆海軍の基礎教育を台湾で

井尻 阿川さんは、日本李登輝友の会の会長に就任しておられます。その李登輝さんが、最近『「武士道」解題』という素晴らしい本を出されました。今日は、この『「武士道」解題』や李登輝さんのことについて伺いたいと思います。

最初に、阿川さんは、もともと台湾とはどういうご縁だったのですか?

阿川 台湾で海軍の基礎教育を受けたんです。

井尻 あ、そうでしたか。

阿川 昭和17年10月初めに、船で台湾へ連れていかれて、いわゆる予備学生として、高雄の少し南にある東港の、何というのかな、入江みたいなところがありましてね。そこは海軍が世界に誇る飛行艇の基地だったんです。

ところがその飛行艇が全部ソロモン方面に出払っちゃって、部隊が空き家になっている。それで、僕たちは飛行機の専門じゃないんですけれども、そこで基礎教育を受けることになった。いまでも東港会というクラス会があるんです。だから、とても懐かしい土地でして。

井尻 李登輝さんは、陸軍少尉で終戦でしたね。

阿川 そう。僕より3つくらいお若いんじゃないかな。

◆「年号は昭和で言わないと分からないよ」

井尻 戦後は?

阿川 ずっと行く機会がなかったんですが、いまから30年近く前、戦後20数年経ってようやく行ったんですよ。戦争中、海軍の少年工だった台湾人ビジネスマンに―今でも付き合いがありますけれども―、アテンドしてもらって、東港にも連れていってもらった。

井尻 懐かしかったでしょう。

阿川 ええ、それはもう、本当に印象深かった。台湾の人たちが日本人の僕に対して、大変な親しみを示してくれるんです。

特に陳さんというそのビジネスマンは、馬公(澎湖島)の工作部の少年工だったのね。利発な子供で、海軍士官たちに大変可愛がられた。天長節とかお祝いというとお赤飯が出る。だから70になってもお赤飯が大好物でね、うちへ来ると家内が今もお赤飯を出すんです。

大変な海軍贔屓で、馬公へ入る駆逐艦から何から名前も形も全部知っていた。ところが日本は敗けた。失意の時代が来て、山に上がって馬公の港を見ていたら、港に駆逐艦「雪風」そっくりの船が入っている。スパイ容疑を受ける危険をおかして、蒋介石政権の軍港の中へ忍び込んでみた。するとやはり、錆が浮かんでいるけれども、まさにほんものの「雪風」なんです。ようするに戦後中華民国海軍に渡されたわけですよ。それを知らないからびっくりしちゃってね。「雪風の錆は君の涙だ」という詩を作った。そういう大変な日本贔屓のビジネスマンなんですね。

彼が台湾を案内してくれて、いろいろおかしいことがありましたよ。東港を訪ねて行った時、昔この町の小学校長だったおじいさんとめぐりあってね、僕は失礼のないようにと、「民国三十三年頃、私、ここにおりまして」と言ったら、「年号は昭和で言わないと分からないよ」って、たしなめられた。涙が出そうになりましたよ。

駅員たちも覚えていて、日本語で「そうか、あんた東港航空隊にいたか。東港航空隊、懐かしいねえ。乗りなさい、ひと駅」と言うの。

「駅、まだ昔のままあるよ」

それは大鵬という駅なんです。日本海軍が東港線という支線の途中に駅を造っていた。しかし、そんなものは旧宗主国が造ったものだから、とっくにないだろうと思っていたら、そのままの名前であるっていう。「タイホウ駅が、まだあるんですか?」と訊いたところ、その駅員は「タイホウじゃないよ。おおとりだよ」と言うんです(笑)。

井尻 逆に教えられた。

阿川 陳さんの方は、話の最中、しきりに「敗けたとき、敗けたとき」と言うから、「あなたたちにとっては勝ったときなんじゃないの?」と聞いたら、「いいえ私は日本人、支那人 大嫌い」(笑)。こういう人たちがいるんですね。ただ、その頃は李登輝さんの名前は知らなかった。

井尻 蒋介石がまだ存命で、戒厳令の頃ですか。

阿川 そうです。観光旅行していても、突然空襲警報が鳴り出して、なんだと思ったら、空襲を受けた想定の演習なんですね。

◆大教養人

阿川 僕は文士ですからね、自由にものを言える立場でなければ嫌だということで、李登輝友の会の会長も、最初はお断りしたんです。極端に言えば、李登輝前総統を批判する自由だって持っていたい。ですから、「理事にはなるけれど、会長は勘弁してくれ」と言ってたんだけれども、蔡焜燦さんから電話がかかってきて、「あなた、会長にならなきゃ駄目」と(笑)。

井尻 ははは、蔡焜燦さんから言われたら仕方がないですね。

阿川 鶴の一言で、しょうがない、「わかりました」と承知してしまった(笑)。だから、実務は何にもできないし、年だけ食ってる役立たずの不適格会長なんです。

井尻 阿川さんが李登輝さんにお会いになったのはいつごろですか。

阿川 実は一昨年が初めてなんです。それ以前から、間接には存じ上げていましたがね。深田祐介さんの書いたものを読んでいたら、昭和の陛下崩御に際して、世界の元首級で李登輝さんほど深い哀悼の意を表した人はいないとあって、涙が出てきてね。世界の先進国がすべて帝国主義的な傾向を持っていた20世紀の初めから半ばにかけて、昭和天皇がもし本当に台湾人を自分の権力下に置いて得々としてる〈EMPEROR〉の感じの方だったら、そういう感情はもたれなかったでしょうね。やはり李登輝さんは皇室の伝統と昭和天皇のお人柄がよく分かっていたんですね。だからああいう涙せんばかりの哀悼の言葉になった。

10年以上前、国際政治学をやっているうちの長男が、そっちの方専門の連中とわいわい議論している席に僕が出ていて、台湾の話になり、「李登輝さんというのは、いまアジアで一番優れたステイツマンではないだろうか」と言ったら、一人ニヤッとするのがいやがってね。「アジアで? 世界で、と言い直してもらいたいですな」(笑)。

井尻 それは愉快だな。

阿川 そんなことで、李登輝さんにお目にかかってはいなかったけれども、蔡焜燦さんが僕の書いたものを読んでいて、「いっぺん台湾へ来なさい」と呼んでくださった。

それで一昨年、また何十年ぶりかに台湾に行って、そのとき李登輝さんの私邸を訪ねたんです。政治家というより、大教養人という感じがしましたね。

井尻 私は3回お目にかかりましたが、そういう印象でした。最初は総統時代の1997年、現役の時代にお会いして、台湾の歴史教育の話になった。蒋介石時代の台湾の歴史教育は、中国大陸の歴史しか教えないというんですね。そのことに危機感を抱いておられて、「もっと台湾独自の歴史を教えなければいけない」と、李登輝さんが先頭に立って歴史教科書の書き替えを始めた頃でした。

それで話がだんだん日本にいたころの話になって、京都の話、西田哲学の話、禅の話、次から次へと実に話題が豊富で、深いんですね。戦前・戦中の京都学派といいますか、京都哲学といいますか、そのへんの教養の深さが次々と出てきましてね。驚きかつ感激したんです。

その李登輝さんが、『「武士道」解題』という本を出した。阿川さんも推薦の言葉を書いておられますが、これほど武士道を語るに適任者はないと思いました。もともと李登輝さんの専門は農業経済ですね。

阿川 そう。

◆「大和魂」の語り部

井尻 新渡戸も札幌農学校を卒業して母校の教師になっている。台湾の行政官だったときも……。

阿川 そう、農業技師として台湾へ行っていますね。

井尻 それからもう一つ、クリスチャンという共通項もある。

阿川 何しろこの本、内容が充実してて面白いですね。ただ、中身を読まずにふっと見て、武士道を大変高く評価してるというと、軍国主義の復活じゃないかと勘繰る向きもあるかもしれませんが、全く違うんです。大体、新渡戸が英文で書いた『武士道』の副題が「THE SOUL OF JAPN」、「日本人の心」という題でしょ。言い換えれば「大和魂」です。その大和魂も、戦争中にいわれたみたいな、ただお国のために突っ込んで死ねばいいという、あの変な大和魂とは違うものでね。厚みと深みのある義と勇と側隠の心、それから礼儀正しさ、昔の日本人のよさを取り返しなさい、失わないようにしなさいよということです。

井尻 最良の語り部ですね。

阿川 こんなにあちこち折り込んだり線を引いたりした本は久しぶり……(笑)。

この本の副題は「ノーブレス・オブリージュとは」と付けられていますが、これも特権階級の精神性という意味ではなくて、恵まれた環境と恵まれた家庭に生まれ育った者は、公儀に尽くす義務があるということですね。それを実際李登輝さんは実践している。李登輝著『「武士道」解題―ノーブレス・オブリージユとは─』は、新渡戸稲造の『武士道―THE SOUL OF JAPN―」が基礎にはなっているけれども、ある意味では李登輝さんの読書遍歴と言えますね。

井尻 李登輝さんご自身の知的遍歴がうかがえる。

阿川 哲学的な分野の読書遍歴が実に興味深いんです。それも旧制高等学校時代にかなり集約されている。旧制高校というものも、一種のノーブレス・オブリージュを持たなければならない立場の人たちの教育機関だった。戦後のアメリカによる教育改革で旧制高校がなくなってしまったのは、惜しいですよ。

井尻 そうですね。

◆武士道を体現されていた昭和天皇

阿川 旧制高等学校を卒業しないと、原則として帝国大学へは進めなかった。僕なんかは文学部だから、殆ど無試験みたいな東大入学ですが、それでも高等学校の卒業資格をもっていないと、東大や京大へは原則としていけなかったんです。自分がエリートぶるわけではないけれども、その分だけやはりノーブレス・オブリージュみたいなものが要求されると思う。

台湾の人たちもそうですね。台北高等学校があって、そこへ進学した李登輝さんが何に悩み、何を読んだかというのは、僕は同世代だから、たいへん親近感を持ちますね。それからクリスチャンになられるわけです。もっと前からその傾向はあったと思いますけれども。

井尻 ゲーテや倉田百三、トマス・カーライルなどを通じて、人間いかに生くべきかということを、思い詰めている。

阿川 うん、そう。のちに台北市長になったとき、何百万の人を治める立場だから、ついついはやる気持になるのを、「そうはやるな」と自分に言い聞かせたというのも、それこそ武士道というか大和魂のいい面を活かそうとされたんでしょ。

井尻 それから、先帝陛下の御製の……。

阿川 ええ、

  ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ
             松ぞををしき人もかくあれ

という有名なお歌に、深い感銘を受けておられますね。「勇と義が止揚されてさらなる高い次元まで到達している」「昭和天皇は武士道を最もよく体現されていた存在」と絶賛しています。

井尻 「そうでなければ、あのマッカーサーを立ちどころに心服させることなど到底不可能であったでしょう」とも指摘しています。もともと阿川さんが、『文藝春秋』の巻頭随筆でこの御製を紹介されて、かつ李登輝さんの話を繋げて書いておられましたが、それが、この『「武士道」解題』にまた出てきたわけです。

阿川 心服させる下心があったら誰も心服しやしない。昭和天皇は、無私の、全く天衣無縫の方でしたからね、マッカーサーも心を打たれたんでしょ。

◆日本の総理大臣になってほしい

阿川 陳さんというビジネスマンのことを言いましたが、彼は、自分の息子に「峯松」と名前(号)を付けた。昭和天皇のあの御製からとったんです。

李登輝さんは、「自分は台湾の人間であり、台湾の政治家として生きてきたのだから、台湾のために終生尽くす。しかし昭和20年の夏までは日本人だった。日本も励ましたいんだ」ということを言っておられますが、ありがたい話ですよね。そんなことを言う指導者が、世界中ほかに誰かいますか。

井尻 日本の和歌に関する感受性も非常に鋭敏に表現されているし、それから禅への関心も深い。西田哲学の本質に迫っている。ところが、戦後の京都学派には急速に左翼の方に変節していった人が何人もいますね。われわれは日本に住んでいると、京都学派の知識人が戦後崩壊して左翼の方に走っていった姿を見てしまったわけです。

これに対して李登輝さんは終戦まもなくして台湾に戻って、京都学派の崩壊を感じてはいたでしょうけれども、目の当たりにしなかった。それはある意味で幸福なことではなかったのか、そんな気もしました。戦後の知識人が自ら崩れてしまった屈辱的な一時期を経験していないだけに、このように素直に日本的な価値体系を評価できたんじゃないでしょうか。

阿川 そうかもしれないけれど、いわゆる外省人たちが入ってきたときの苦労は大変なものだったでしょう。命がけでした。そうして、しかも国民党の中から頭角を現し、自由化を実現し、台湾を繁栄させたというのは凄いことです。

「日本の総理大臣になってほしい」と言う人がいるそうだけれど、まったく、そう言いたくもなりますよね。

井尻 もし総理になってくださったら、日本も変わるでしょうね。

阿川 一変しますよ。

井尻 もう一つは、李登輝さんがクリスチャンになったということですね。新渡戸もクリスチャンだったわけですが、クリスチャンになったことと、ヨーロッパの教養というものを上手に組み合わせて、新渡戸の『武士道』を解題している。もちろん中国の儒教や道教、その他の中国古典に関する素養はたっぷりあるわけですから、日本と中国と西洋、この3つの教養の蓄積が次々に繰り出されてくる。その知的な広さと平明な語り口が、実に読んでいてすがすがしい。新渡戸を語りながら李登輝さんの人格の奥行きみたいなものが伝わってくる。

阿川 新渡戸稲造の『武士道』を語りながら、ご自分の政治哲学とか政治上の信念、人生観というものを、はっきり出しておられます。

井尻 本居宣長の、

  敷島の大和心を人とはば
         朝日に匂ふ山桜花

あるいは吉田松陰の、

  かくすればかくなるものと知りながら
         やむにやまれぬ大和魂

などを引きながら、武士道と大和魂の神髄に迫っています。和歌に対する感受性というか素養は、大変なものがありますね。

阿川 平成8年に菊池寛賞を受賞した『台湾萬葉集』(孤蓬萬里編著)というのがありますが、和歌一般というより万葉集を、戦前日本人の先生に教わって、非常に感銘を受けた人たちが大勢いて、その裾野が広がって、『台湾萬葉集』をつくった。台湾には和歌の伝統が受け継がれているわけですね。それから、最近『台湾俳句歳時記』(黄霊芝著)というのも出た。

井尻 それは面白いなあ。確かに風土が違うわけだから、歳時記も台湾風に修正しなくてはならない。

阿川 季語も台湾の食べ物だったり台湾の花だったりする。俳句の中に台湾語が入ってくるわけです。そういう文化のつながりというか、日本のいいものがそういうふうにして残っているということに、感銘を受けた。

井尻 台湾には「日本語を愛する会」というのがあって、70代ぐらいの日本語世代から、それ以下の若い世代の会員まで含めて、日本語の文学鑑賞をしているんです。

阿川 ほう。

井尻 きっと阿川さんの作品も取り上げられていると思いますが、文学作品を取り上げて、それをまずアナウンサーが美事に朗読する。それから、その言葉の解釈と、台湾の言葉に置き換えるとどういう表現になるのかという勉強会をしているグループなんです。感動しましたね。

彼らは今日の日本語が乱れている事態を本気で嘆いていました。それはやはり、李登輝さんの存在と無縁ではない。韓国の李承晩のように、いち早く強烈な反日教育をしてしまうと、そういう人たちも絶えてしまっていただろうけれども、幸い台湾では日本語を愛する勉強会があり、和歌や俳句まで自分のものにして楽しんでいる。

◆日本人よ、自信を持て

井尻 李登輝さんが政治の現役を退いたとき、キリスト者として山にでも入って、常民というか、普通の台湾人のお世話をしたいということをおっしゃっております。もちろんキリスト者としての文脈で話しているんですが、日本的に置き換えますと、隠棲する、あるいは隠遁するという感受性ともダブっているのかなと思ったんです。李登輝さんが、かねて「奥の細道」を歩いてみたいと表明されているお気持と連続しているような気がしました。

阿川 それにしても、なぜその程度のことが実現させてあげられないのか。日本の政府は何をしているのかと思うね、僕は。

井尻 とにかく健康であられるうちに、日本でお迎えして、「奥の細道」のいちばんいいところを、お好きなようにご案内する。そういうことを早く実現したいと思うんです。

阿川 この本にこういう件りがあります。

<日本の方々にも言いたいのです。「もっと自信を持って、自らの意志で、決然と立っていてもよいのではないですか? なぜなら、あなたがたこそ、『日本の魂』(つまり武士道)の真の継承者なのだから」>

そう言って日本を励ましてくれているわけですね。李登輝さんをお迎えするくらいのことは、「自らの意志で、決然と」実行すればいいんです。

◆文武両道の体現者

井尻 『武士道』とともに『奥の細道』にも思い入れがつよいようですね。日本に行ったらぜひ「奥の細道」、芭蕉の後を追ってみたいという気持を持っておられる。まさに文武両道ですね。日本の政治家にはちょっと期待すべくもない世界ですね。

阿川 それから、台湾独立を望むのかどうかということについても、随分はっきり語っていますね。中華人民共和国なんて言っているけれども、言っていることとやっていることは違うじゃないか。自分は台湾を独立させようなんて一言も言っていない。向こうがせめて台湾並に民主主義や自由主義を成熟させてくれるのを待っているんだ、と。

井尻 一刻も早く台湾のレベルに追いついてほしい、根気よくそれを待つのは、自分の「側隠の情」である、と。

阿川 さっきも言ったけれど、こういった感性というか教養は、だいたい高等学校のころに基礎が出来上がっているんですね。

井尻 鈴木大拙や西田幾多郎に惹かれたのもその頃でした。

阿川 だから日本の悪いところもみておられるだろうけれど、いいところをたっぷりとっている。

井尻 反日感情がわだかまっていると、どうしても悪いところを語りたくなるものですが、李登輝さんの場合、そういう底意地の悪さとは無縁ですね。そこに人格を感じさせられます。

阿川 「総統という立場に置かれていた12年間、新渡戸精神というものが自分の言動や政治哲学を強く支配していた」というんだから、これにはあらためて驚きを感じますね。日本人として、誇らしく思うというか、感謝するというか、そういう人がいてくれたということは、救いであり、ほんとに大きな励ましになる。

◆「大和魂」は大人の思慮分別

井尻 李登輝さんは、ものごとを考えているとき、日本語で考えているんでしょうか。李登輝さんのことは分からないけれども、実業家の許文龍さんは、「自分は殆ど日本語で考えている」とおっしゃっていました。

阿川 そうですか。許文龍さんもほぼ李登輝さんと同世代でしょ。言葉の問題はともかく、あの方々がやはり大和魂の持ち主なんだろうな。

ただ、それは戦時中のヒステリックなものとは違うんでね。大和魂というのは、『今昔物語』か『宇治拾遺』か何か、平安時代あたりの説話集の中にある話だけれど、家に泥棒が入って、勝手にものを持ち出していくのをみていて、腹に据えかねて、隠れていたのが最後に何か罵った。それで泥棒が引き返してきて殺されてしまう。これについて、大和魂なきためにこういう目に遭ったんだと諭しているわけです。つまり大和魂というのは大人の思慮分別なんですね。感情にまかせて余計なことを言ったりはしないという心構えのようなものなんです。

井尻 「『武士道』は勇気だなどと短絡して、何でもかでも遮二無二、猪突猛進すればいいというものではありません」、「死に値せざる事のために死するは、『犬死』である」と、李登輝さんは断言しています。

それから、こんな件りもあります。

<私の総統時代、中共から絶えず激しい挑発を受けました。すると、台湾の国民も大きく動揺して、「とにかく恭順の意を表しておこう」という者や、「いや、徹底的に戦って相手を屈服させよう」という者など、さまざまな人々からさまざまな反応が出てきます。こういうときにこそ、もっと大局的な視座からもっと大きな判断を打ち出すのが、民の上に立つ者の務めだと痛感しました。>

文攻武嚇と称して、北京は台湾近海にミサイルまで打ち込んできたわけですが、李登輝さんは動じなかった。

阿川 「慌てんでいい」と、泰然としていた。

井尻 日本の政治家だったら、どうなりましたか。あれは想像を絶する試練だったでしょうね。

阿川 ミサイルでぐらつくほど「『新台湾』はひ弱ではありません」と、大変な自信を示しています。指導者たる者、こうでなくっちゃ。

井尻 こうも言っています。

<日本は、北朝鮮のミサイルのことをすごく怖がっているように思えますが、いたずらに我を失うようなことをしてはいけません。何もやみくもに怖がることなどないはずです。>

阿川 ほんとに、日本の総理大臣になってもらいたいねぇ。(笑)無理な注文だろうけど。

井尻 あの中国の露骨な文攻武嚇。言葉で攻め、武力で脅しても屈せずに対処してきたという、この実績は凄いことです。アジア周辺諸国の中で燦然と輝いている。

阿川 それを言うなら、「アジア」と言わずに「世界」と言ってほしい……ですよ。(笑)

◆北京に怯える日本政府

井尻 それにしても日本の政治家や外務省が李登輝さんの訪日を認めないのはとんでもないことです。

阿川 北京が何を言ってこようと、「それとこれとは別だ」と言えばいいじゃないですか。

井尻 しかもいまは全くの私人ですからね。そのビザを発給しない。怯えている。

阿川 もし今後もビザを発給しないということだと、世界的な信義の問題で、日本は独立国家としての誇りも自信も持っていない国家ということになる。

井尻 それと同時に、国内でも「主権国家としてそれはいかにもだらしない、情けない」という世論が出てくると思いますよ。

阿川 ある意味ではわれわれも試されているということです。おそらく、アジア諸国の中でも、日本が一番臆病でしょう、中国・北京に対して。

阿川 「日本人、もう少し胸を張りなさい。しっかりしなさい」と励ましてもらっているんだからね。

井尻 聖徳太子が随の揚帝に「日出づる処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙なきや」と言って、日本が大陸から離れて、独自の国造りを始めた。あれから大宝律令その他が整理されるまでに約100年かかっているんですね。つまり大陸との関係を平等にしてから国内体制を整えるまでに約100年かかった。台湾も、蒋介石が台湾に来てから50数年経っている。フランスのノルマンディ―地方からイギリスヘ渡った人々が独立してイギリスという国をつくるわけですが、これがまた100年戦争をしています。だから結局大陸周辺の島が国になるには100年ぐらいの年月が必要なんです。

さすがに現在は時間の流れが速いから、かつての100年は現在の50十年に匹敵するとも考えられる。そろそろ、結論が出る時期のように思うんです。

阿川 日本の戦後を見てみると、50年ではまだ駄目ですね。日本がちゃんとした国になるには100年かかるのかなと僕は思っています。経済面は30年から40年でここまで回復したけれど。

◆経済は国家の中心軸たり得るか

井尻 ところが、その経済が素晴らしくなるということが、いかに難しい問題をもたらすか、気をつけねばならないんです。

最近は台湾の大陸投資が急速に進んでいますが、李登輝さんは、「一番の問題は、台湾の製造業がどんどん大陸に行ってしまうことだ」と嘆いていました。工場を移転して、安い人件費でものを造る。まさに日本がやってきたのと同じことをいま台湾がやっているんですね。やはり経済というのは魔物です。と言うのは、ほんの一部の例外は別として、経済人には武士道がないんです。

阿川 利益に群がって、公に尽くさない?

井尻 結局のところ、大局観を欠いた企業の私利私欲。

阿川 これはしかしある意味ではしょうがない。経済というのはそういうものなんだろうから。

井尻 しかしそれは経済というものが国家の中心軸たり得るかどうかという問題だと思うんです。李登輝さんは経済人の「人間の格」を問うているように私は見ました。明治の人たちの富国強兵、殖産興業というんですか、国を興していく志。国という大きな枠組の中で、国民経済ということを大事にしてきたわけですけれども、ここまでボーダレス現象がすすんでしまうと、難しいことになってくる。

阿川 その通りですね。

井尻 本日は、ありがとうございました。