minzokugaku李登輝総統は「新渡戸稲造と私」という講演原稿のなかで、新渡戸稲造の手腕を高く評価しています。初代総督・樺山資紀から第三代の乃木希典までの時期は、台湾総督府に反抗する勢力の討伐に力を割かれたこともあり、台湾の発展は第四代総督・児玉源太郎の時代に入ってやっと端緒についたといえるでしょう。内地に滞在することが多かった児玉に代わり、台湾統治の指揮をとったのが民政長官だった後藤新平でした。

後藤は、禄を食むばかりで仕事をしない千名以上の官吏を内地へと追い返し、代わりに能力のある少数精鋭の若者たちを台湾へと呼び寄せました。その一人が新渡戸稲造です。新渡戸は台湾の経済発展のカギは糖業にありと見抜き、自ら糖業局長に就任してその指揮をとり始めます。

後に台湾の砂糖生産量はそれまで世界一と言われたハワイを追い抜き、台湾経済の飛躍に大きく寄与することになります。その新渡戸と民俗学の大家、柳田國男は「台湾」というキーワードでつながっていました。新渡戸の存在がなければ日本の民俗学は生まれなかったかもしれません。不思議なめぐり合わせを感じる一冊です。


『民俗学・台湾・国際連盟 柳田國男と新渡戸稲造』 佐谷眞木人
講談社 2015年1月10日発売

柳田國男については、これまでさまざまな論究が蓄積されてきました。また、柳田に比べれば数は少ないものの、新渡戸稲造についても同様です。しかし、両者の関係、とくに思想的連関とその社会的背景に関するまとまった論考は今まで、ほとんど書かれていないません。

しかしながら、二人はともに東京帝国大学で農政学を修めた同窓であり、学問的な領域は近いのです。柳田は内務官僚として、のちには朝日新聞社の論説委員として従事するかたわら、ほぼ独力で民俗学の研究者としての地位を築いていったために、民俗学における「師」と呼ぶような存在をもちませんでしたが、その柳田にとって新渡戸はただひとり「師」に当たる人物であったともいえます。柳田の、ひいては日本における民俗学の成立を考えるうえで、新渡戸と関係を丁寧にみていくことが不可欠だと著者は考えます。

二人の関係が急速に接近したきっかけは、1907(明治40)年2月14日、台湾総督府の任を終えて帰国した新渡戸の講演「地方(じかた)の研究」を柳田が聴いたことであることは、ほぼ、まちがいありません。柳田はこの講演に大きな感銘を受け、その後1910(明治43)年12月、新渡戸邸を会場とした「郷土会」が発足します。この会は新渡戸を世話人とし、柳田を幹事役とした研究会で、地方文化に興味をもった農政官僚や研究者、知識人らが集い、自由で活発な議論がおこなわれました。この郷土会は新渡戸が国際連盟の事務次長としてスイスに赴任する1919(大正8)年まで60回以上続くことになります。この期間に柳田はみずからの学問の基礎をつくっていくのです。

やがて柳田は、新渡戸の推挙によって国際連盟の委任統治委員に就任しますが、わずか2年あまりで辞任しています。その後、両者の関係は希薄になっていったものと思われますが、それでもこの関係こそが日本民俗学誕生の決定的契機だと見なせます。

本書では柳田が確立した「民俗学」(一国民俗学)が、植民地における「治者」の視線に胚胎し、やがてそれが反転して「常民」の学となっていく過程を追います。また、それがある種の──文化人類学とはちがった意味での──文化相対主義の産物であり、それは国際連盟における新渡戸との経験の反映であったことを明らかにします。