袋井市で鳥居信平の胸像除幕式【7月13日 産経新聞】

台湾に地下ダムを建造した袋井市出身の技師、鳥居信平(のぶへい)(1883~1946)の功績をたたえ、台湾から袋井市に胸像が贈られ、文化施設「月見の里学遊館」で12日、除幕式が行われた。鳥居の親族や関係者約100人が参列し、鳥居の事跡を忍んだ。

胸像は、高さ60センチのブロンズ製で、1メートル20センチの高さの台座に乗せられたもの。同館の玄関口に台湾の方角に向けて設置された。

式典には、鳥居の評伝「水の奇跡を呼んだ男」(産経新聞出版)を出版したジャーナリスト、平野久美子さんも参加。除幕式を書名になぞらえて、「(胸像の設置は)皆さんが生んだもう一つの奇跡です」と祝辞を述べた。鳥居の孫で、東京大学工学部教授の鳥居徹さんも駆け付け、「これを機に日本と台湾の関係がさらに緊密になってほしい」と話していた。

鳥居は大正12年、台湾島南端の屏東(へいとう)県に、一切の電力を必要としない地下ダムを建造した。約80年たった今も、20万人に1日3~12万トンの水を供給しており、同県長の曹啓鴻氏は「現在の省エネに通じる画期的な事業」と評価している。


功績たたえ台湾から鳥居信平の胸像 出身地・袋井に【7月13日 静岡新聞】

日本統治時代の台湾南部の屏東県で、地下ダムを建設した袋井市出身の水利技師鳥居信平(1883~1946年)の功績を多くの人に知ってもらおうと、台湾から鳥居の胸像が故郷の袋井市に寄贈され12日、同市上山梨の月見の里学遊館で除幕式が行われた。

鳥居は周智郡上山梨村に生まれ、農商務省に勤務した後、台湾製糖に転職。屏東県の治水と農業用水確保のために1923年、地下ダムを建設した。38年に台湾製糖を退職し、帰国した。南極越冬隊長として活躍した鳥居鉄也氏は長男。

鳥居が建造した地下ダムは川底にせきを設け、川の流れを緩やかにするとともに、せき止めた伏流水は農業用水や飲料水に利用した。自然を生かした環境に優しい造りで、80年以上経過した現在でも、屏東県の20万人以上の住民の暮らしを支えている。台湾では鳥居の功績は長く伝えられ、中学の副読本で教えられているという。

寄贈された胸像は、台湾の実業家許文龍氏が制作した。除幕式には袋井市や鳥居家親族、台湾関係者ら約200人が出席した。原田英之市長は「袋井の新たなシンボルとして、鳥居氏の功績を末永く伝えていきたい」とお礼を述べ、屏東県の曹啓鴻県長は「台湾の人たちは水を飲みながらいつも鳥居さんに感謝している。これを機に、袋井市と心の交流ができれば」と話した。この後、月見の里学遊館入り口で関係者が除幕し、胸像の設置を祝った。


鳥居信平胸像 袋井で除幕式 『水使うたびに感謝』【7月13日 東京新聞】

台湾と交流の“新芽”に

大正時代に台湾で地下ダム建設に尽力し、荒れ地を豊かな緑地に変える功績を残した袋井市出身の技術者、鳥居信平(のぶへい)(1883~1946年)の胸像除幕式が12日、故郷の同市上山梨であった。台湾から「偉業をたたえたい」と胸像寄贈を受け実現した式典。台湾からはこの日も関係者が駆け付け、建設から80年を経ても変わらぬ感謝の念をうかがわせた。

「水を使うたび感謝している」。台湾から駆け付けた来賓のあいさつが式典会場の月見の里学遊館に響いた。

正面玄関前には台座を含め高さ1・8メートルのブロンズ胸像。地下ダム建設地、台湾・屏東県(へいとうけん)の曹啓鴻県長(知事)の言葉だった。

袋井市側からも原田英之市長や信平の親族、地域住民ら約200人が出席し、「信平氏は袋井の誇り」などと喜びつつ、台湾の人々の心に感謝した。

信平の偉業は80年前にさかのぼる。当時、台湾を統治していた日本政府にサトウキビ栽培拡大の命を受け、最南端の屏東県に入って、1923年に地下ダムを完成させた。荒れ地の下を流れる伏流水をためることを主眼に、粘土とコンクリートの堰(せき)を地中に埋め込む画期的な技。山を削るなど大きな環境変化を伴わずに、農業用水と飲料水の安定供給を実現した。

ダムは80年以上たった今も現役で、学校の副教材に載るなど語り継がれている。2007年にダムが台湾の土木遺産に指定されたのがきっかけで顕彰の機運が高まり、台湾経済界の重鎮で芸術家の許文龍さんの手で胸像が製作されて、日本に届けられていた。

式典では未来への思いも語られた。「現地を訪ね、親睦(しんぼく)を深めたい」と原田市長が言えば、曹県長も「袋井市と交流していきたい」。緑をはぐくんだダムは、80年の時を越え、新たな懸け橋の“芽”を育てた。