今年で3回目となる「台湾出身戦歿者慰霊祭」が12月9日、李登輝学校研修団の卒業生でつくる李登輝学校日本校友会(片木裕一理事長)の主催により靖国神社において斎行された。

午後1時50分、韓国から駆けつけた同会幹事や会員など約50名が参集殿に集合し、2時10分ころ片木理事長を先頭にして本殿に参進。祭文奏上の宇都宮鐵彦氏(第4回李登輝学校研修団団長)が玉串を奉奠、宇都宮氏に合わせて参列者も拝礼して正式参拝した。

その後、宇都宮氏が烈々たるも真心こもる祭文を奉読、27,600余の台湾出身戦歿者の御霊に慰霊の誠を捧げた。しめやかな中にも厳粛な雰囲気に満たされ、参列者の顔は晴れやかだった。以下に「祭文」をご紹介する。

参拝後は靖国会館に移動し、講演と懇親会を開催。片木理事長自らが司会をつとめ、永山英樹・副理事長が開会挨拶。続いて三宅教雄・台南会会長が来賓挨拶。11月下旬に理事をつとめる台湾教会(斎藤毅理事長)の訪台に同行し、台中の宝覚寺や屏東・高樹の広州寺に慰霊の訪台したことや、許昭栄氏が高雄の旗津に建立した「戦争と平和記念公園」を訪問した折の感想などを述べた。

また、李登輝学校日本校友会を代表して監査の柚原正敬・本会事務局長が挨拶し、『李登輝訪日・日本国へのメッセージ』が増刷になったことや、李登輝前総統の靖国参拝に至る経過などを述べた。

引き続き、参列した台湾人を代表して呉正男・日本李登輝友の会理事が挨拶して献杯し、懇親会に。ほとんどの方が顔見知りということもあり、なごやかに打ち進む。途中で、『日本の命運は台湾にあり』(まどか出版)という新著を出版した永山氏と、謝長廷氏の来日について柚原氏からお話をいただき、最後に薛格芳・副理事長が閉会の辞を述べ盛会裡に終了した。


台湾出身戦歿者慰霊祭 祭文

ここ靖国神社に祀られる大東亜戦争にて散華された台湾出身御英霊の御霊に対し、日本と台湾の共栄を念願する参列者一同謹んで感謝と報恩の誠を捧げます。

顧みれば、祖国日本が東亜の安定と自存自衛のため米英に宣戦を布告し、台湾においては朝鮮に遅れること四年、昭和十七年四月に陸軍特別志願兵制度が実施されるや、千二十名の募集に対して志願者四十二万五千九百六十一名、志願倍率実に四百十八倍、翌十八年には千八名の募集に対して六十万一千百四十七名、志願倍率は五百九十六倍にも達しました。昭和十九年からは海軍特別志願兵制度も実施され、こちらにも志願者が殺到しました。血書嘆願する者も少なくなく、かくも熱誠をもって志願兵に応募した例は世界戦史に類を見ません。即ち、台湾からは軍人八万四百四十三名、軍属十二万六千七百五十名、計二十万七千百九十三名が大東亜戦争に従軍されたのでした。

特に昭和十七年二月には五百名の強者が選抜され、第一回高砂義勇隊が「高砂挺身報国隊」と名付けられて編成、三月にフィリピンに上陸して第二次バターン攻略に参戦するや、降り注ぐ弾雨をものともせず、次々と道を拓き橋を架けて行きました。その敏捷性、獣の如き視覚と聴覚、併せて軍紀厳正を保持する姿勢は正規軍を凌ぐとさえ云われました。中でも密林での活躍は独壇場で、衰弱した日本人戦友に食べさせるため食糧調達に立ち働いたと云います。中には腹が空ききっていたにも拘らず、調達した食糧には一切手を付けず、戦友に持ち帰ろうとして密林に事切れた義勇隊員もおられました。南方各地より生還した将兵の多くが「高砂兵の御蔭で生き延びられた」と証しているところです。

また、昭和十八年五月より翌春にかけ、八千四百余の台湾少年工が希望に燃えて神奈川県の高座海軍工廠に入廠、戦闘機生産に従事されました。しかし戦争末期の空爆により、派遣先の防空壕で、あるいは夜勤明けの帰途、六十名が尊い犠牲となられました。

かくして台湾出身者にて戦歿された方々は三万三百四名の多きにのぼり、二百四十六万余の御祭神と共にここ靖国神社に鎮まっておられます。一方、台湾においても一九九〇年十一月、日台有志が力を合せて台中の宝覚禅寺境内に「和平英魂観音亭」を建立、同時に李登輝総統の雄渾なる筆にて「霊安故郷慰霊碑」を建立して台湾出身戦歿者をお祀りしております。

大東亜戦争にて戦歿された方々無かりせば、私どもは更なる生を賜ること叶わず、戦後世代の命もまた齎されなかったことは厳然たる事実であります。就く日本と台湾の深い結びつきは台湾出身御英霊からの賜り物であることに思いを致し、ここに深甚なる感謝の誠を捧げるとともに、その御恩に報いんが為、日台共栄のため一層尽力することをここにお誓い申し上げます。

平成十九年十二月九日

台湾李登輝学校研修団第四回団長 宇都宮鐵彦
台湾出身戦歿者慰霊祭参列者一同