去る4月25日、群馬県勢多郡富士見村の羽鳥家菩提寺の珊瑚寺において、日本統治時代の「最後の台南市長」として今でも台湾の人々から尊敬されている羽鳥又男翁(1892年~1975年)の胸像除幕式が行われた。

当日は朝から生憎の雨模様だったが、今年、開創1200年を迎えた天台宗の名刹でもある珊瑚寺には、羽鳥又男翁令息で三男の羽鳥直之氏やご家族、次男故羽鳥道人氏のご子息夫妻をはじめ、羽鳥又男顕彰会(関口隆正会長)などの関係者が続々と集まり、台湾駐日代表処からは李世昌文化部長、本会からは柚原正敬事務局長や早川友久前青年部長、群馬県の会員の須田雅江さんなども参列し、総勢60名ほどとなった。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA羽鳥又男翁の胸像は、アーチ形に桜の枝が覆う地蔵堂に続く参道の左側に設置され、羽鳥忠男・元富士見村教育委員会委員長の司会により予定通り10時から始まった。まず胸像を覆っていた幕が羽鳥直之氏や関口隆正(せきぐち たかのぶ)羽鳥又男顕彰会会長など関係者によって落とされると、許文龍氏が寄贈した羽鳥又男翁のブロンズの胸像が現れ盛大な拍手が沸き起こった。

続いて、住職の濱田堯勝(はまだ ぎょうしょう)上人による読経が捧げられると荘重な雰囲気に包まれた。それが終わると、関口隆正(せきぐち たかのぶ)羽鳥又男顕彰会会長が挨拶。また、羽鳥直之氏も挨拶し、来賓を代表して群馬県立歴史博物館専門員の手島仁氏が祝辞を述べられた。最後に、珊瑚寺檀信徒会世話人総代の小淵光幸氏が閉会の挨拶を述べ、1時間ほどの除幕式典はつつがなく終了した。

挨拶する羽鳥直之氏(羽鳥又男氏令息)、手前は珊瑚寺住職の濱田堯勝上人

胸像設置までは紆余曲折あったというが、折しも今年は羽鳥又男翁生誕115年目にして、仏式で33回忌に当る節目の年。この年に生まれ育った郷里に、しかもキリスト教徒だった羽鳥又男翁を顕彰する胸像が天台宗の菩提寺に設置されるという奇しき巡り合わせに、参列者の感慨もひとしおだった。

ここに、手島仁氏が来賓祝辞において、羽鳥又男の事績を顕彰し、またこの胸像が郷里に設置された意義について述べられたので、その全文をご紹介したい。手島氏祝辞は「羽鳥又男胸像除幕式祝辞」と表題が付されていたが、本会HP掲載にあたり、読みやすさを考慮し、タイトルおよび小見出しは本会メールマガジン『日台共栄』編集部で付けたことをお断りする。

ちなみに、許文龍氏は羽鳥又男の他に日本人では後藤新平、八田與一、浜野弥四郎の胸像を製作して顕彰されている。しかし、日本の人名辞典には後藤以外の人物は掲載されていない。この3氏の名前が人名辞典に掲載されることが、日台交流の一つのバロメーターでもあろう。一日でも早く掲載されることを切願するとともに、そのために本誌も微力ながら力を尽くしたい。

また、羽鳥又男を最も早く日本に紹介したのは柚原正敬本会事務局長で、平成8年に出版された『台湾と日本・交流秘話』(展転社)においてだったことも併せて紹介しておきたい。当時、台湾協会常務理事で台南市の名誉市民だった羽鳥道人氏から資料を提供されて執筆したという。出版から11年、このような形で結実したことに柚原事務局長も感慨一入の様子だった。


世に知られざる徳人羽鳥又男  羽鳥又男胸像除幕式祝辞

群馬県立歴史博物館専門員  手島 仁

■羽鳥又男の軌跡
本日、台湾の実業家・許文龍先生から贈られました羽鳥又男翁の胸像の除幕式が、関口隆正氏を会長とする羽鳥又男顕彰会の主催により、台湾からのご来賓はじめ関係各位の御臨席のもと挙行されますことを、衷心よりお祝い申し上げます。

とくに又男翁の胸像が、濱田ご住職、小渕檀家総代はじめ、世話人に皆様方や檀家の皆様の大変なるご理解のもと、天台宗の名刹・珊瑚寺に設置されることになりましたことは、台湾と日本の両国の人々の善意の賜物によるものと、敬意を表する次第です。

羽鳥又男翁は、明治25年4月20日に富士見村石井に、羽鳥多三の三男として生まれました。今年は生誕115年にあたります。又男の父・多三は第2代富士見村長を務めた方です。大正5年、親戚の羽鳥重郎医学博士を頼り台湾へ渡り、台湾総督府に勤務、その精勤振りから長谷川清総督の信頼厚く、昭和17年に台南市長に抜擢され、敗戦までの約3年間市政を司りました。すでに前年には真珠湾攻撃による太平洋戦争が始まっており、すべで軍事優先の時代に市長となったわけですが、台南市民のことを考え、大局的な見地から、行政を行いました。そのことが、戦後60年を経過した現在でも、台南の方々に又男翁が、敬愛され、胸像がつくられ、台南と郷里の富士見村へ設置されることになったわけです。

■台南市長としての功績
羽鳥市長の功績を簡単に紹介しますと、次の4点です。台南は日本の京都にあたり、台湾の歴史・文化を象徴する貴重な文化財がある都市です。孔子を祀る台南の孔子廟は、台湾の文化発祥の学堂でした。日本の軍国主義は、そこに神棚を置くことを命じました。しかし、羽鳥市長は孔子廟に神棚はふさわしくないと撤去させると共に、「孔子の教えは国境を超え、時代を超え永遠に伝承されるべきもの」と、老朽化した孔子廟を修理し、祭礼を復活させ、自ら揮毫した「台南孔子廟」の標柱を廟門前に建てました。

さらに赤嵌楼という歴史的建造物が倒壊しそうなほど危険な状態で放置されていたのを、戦時下ゆえ軍部などは猛反対でしたが、台湾総督に掛け合って、大規模な修復工事を昭和18年3月から19年12月に行いました。

孔子廟も赤嵌楼も台湾の人々の心のよりどころという文化財で、その老朽化に誰もが心を痛めていましたが、軍事色をます当局に言い出せなかったのを、市民の心情を汲んで実現しましたものでした。また、開元寺というお寺の鐘は台湾で最も古いもので、戦時中金属供出されたのを、それに待ったをかけました。軍関係者からは非国民と罵られる時代に、生命の危険を省みず、勇気を持って行動しました。

孔子の教えである儒教では、知識の深い浅いを人物評価の大きな尺度としていません。その理由は、知識はなくてはならないが、知識だけでは複雑で変化極まりない現実には応対し得ない。知識でなく見識が必要であり、見識でなく胆識が必要であるというものです。ただの知識に対して、ものの正しい判断が出来る段階を見識といいます。しかし、見識もまだ本物でなく、正しい判断をして、さらにその決断によって決然と実行していく胆力が必要で、この胆力の元になっているのが、胆識です。儒教では知識から見識、見識から胆識を養うことを理想としています。又男翁は、胆識、胆力をもって市長職を行ったといえます。

また、又男翁は戦後は、帰国して、国際基督教大学の創立、そして運営を裏方として支え、威張ることもおごることもなく、敬虔なクリスチャンとして生涯を閉じられました。儒教では「世に知られざるところに徳人あり、知られているところに不徳の人が多い」といいます。まさに、又男翁は「世に知られざる徳人」であります。この我が上州の生んだ「世に知られざる徳人」を、許文龍先生はじめ、台湾の方々により、世に出して頂きましたことに深く感謝申し上げます。

■胸像設置の意義
このたび、胸像が郷里に設置されたことについて、未来を展望し、次の三つの意義があると思います。

その第1は、国際化がますます進展する社会に於いて、われわれ日本人がどのように生きるべきかを羽鳥又男翁の生き方、そのものが指標であるということです。つまり、われわれは、学歴や肩書きなどでなく、本物の学問をして自己を磨き、胆識、胆力をもって国の内外で行動しなければならないということです。それが国際社会から信頼される日本を築くことになるということを、台湾から贈られた又男翁の胸像が実証しているということです。

第2は、又男翁は石井小学校で代用教員をしていた時分からキリスト教に関心を持ち、台湾に渡りすぐに洗礼を受け、クリスチャンになりました。群馬県からは新島襄と内村鑑三という、わが国を代表するキリスト教の思想家が輩出しています。内村鑑三の直筆の「漢詩 上州人」と「I FOR JAPAN, JAPAN FOR THE WORLD, THE WORLD FOR CHRIST, AND ALL FOR GOD」という英文が刻まれた碑が、高崎市役所近くの頼政神社に、昭和36年に鑑三の生誕100年を記念して、鑑三を敬愛する群馬県人によって建てられました。世界広しと雖も、クリスチャンの碑が神社に建っているのは、ここだけです。これと対をなして、クリスチャン羽鳥又男の胸像が、珊瑚寺に設置されました。クリスチャンの胸像が寺院に設置されたのも、ここだけであります。これは、理屈を言わず、義理・人情に厚い上州人気質が、美しく開花したものということが出来ます。

又男が裏方として誕生した国際基督教大学は、日米のキリスト教の諸派が協力して昭和24年に開学しましたが、それに先駆け、群馬県では明治21年に県内のキリスト教徒が、プロテスタント諸派からロシア正教徒までが大同団結して、現在の共愛学園を創設しました。ほかの地域では見られないキリスト諸派の協力という現象も、理屈を言わず大らかで開放的な上州という風土であったから可能であったといえます。

上州人気質を反映させた大らかな宗教観は、国際化が進む社会では大いに注目され、社会に貢献することと思います。クリスチャンの羽鳥市長が孔子廟から神棚を撤去させ、孔子廟を修復させ、祭典を復活させたのも、開元寺の鐘を守ったのも、上州人気質を反映させた寛容な宗教観を持っていたからだと思います。

第3に、今年の1月1日から「観光立国推進基本法」が施行されたように、「魅力ある国づくり・地域づくり」が観光を通して進められようとしています。観光は21世紀で最も重要な国家的な政策となりました。群馬県も県を挙げて観光振興に取り組んでいます。観光によって、(1)人口減少社会を迎える中で交流人口の拡大を通じた「産業・地域の活性化」、(2)草の根レベルでの「国際的な相互理解」、平和の推進などが期待されています。

台湾では羽鳥又男翁のように尊敬されている日本人に後藤新平、八田與一などがいて、許文龍先生により胸像がつくられています。八田與一は石川県金沢市生まれの技師で、台湾にダムをつくったことで知られています。郷里金沢市には資料館もあり、台湾から訪れる人も沢山いて、加賀屋という有名な旅館には、年間1万人以上の台湾人が宿泊するそうです。

群馬県でも、富士見村で羽鳥又男、羽鳥重郎博士、前橋市では共愛学園の周再賜校長や須田清基牧師、安中では六氏先生の一人・中島長吉と、台湾ゆかりの人物がたくさんいます。羽鳥重郎は台湾の風土病撲滅に功績のあった人で、台湾と群馬県で協力して、野口英世賞に倣って羽鳥重郎賞を創設して、世界に文化を発信するということもできます。これら台湾ゆかりの方々の資料館や史蹟などが整備されるならば、多くの台湾の方々が群馬県を訪れることでしょう。また、逆に群馬県人が台湾を訪れ、互いの地域が活性化され、相互理解が深まり、台湾と日本の絆が益々深まることと思われます。

この胸像は私どもに、夢と勇気を与えてくれる台湾からの尊い贈り物であります。

本日は、誠におめでとうございます。以上を以て、祝辞と致します。