一九四七年、国民党政権が台湾住民に血の弾圧を加えた二・二八事件。間もなく六十年がたつが、この事件について、一人の台湾人女性が「日本人も悲惨な歴史を忘れないでほしい」と訴えている。複数の日本人が「反乱分子」と名指しされ、犠牲になった可能性があるためだ。土着の台湾人エリートが標的となった二・二八事件で、なぜ日本人が狙われても不思議ではなかったのか。

「私が話さなければ、殺された日本人は歴史から消えてしまう。やはりほっておくことはできない。これは良心の問題なのです」

先月に来日し、今月にかけ二・二八事件に日本人被害者がいる可能性が高い、と各地で講演した台湾人の阮美姝さん(77)は、そう語り始めた。

二・二八事件は終戦直後、中国大陸から台湾へ渡ってきた国民党が、日本統治時代に教育を受けた台湾人エリート層などを「反乱分子」として虐殺した事件だ。事件後に敷かれた戒厳令は一九八七年まで続き「白色テロ」と呼ばれる暗黒政治を生み出した。事件は大陸から来た外省人(戦後、中国からの渡来者)に対する本省人(戦前からの台湾在住者)の根強い不信を生む原因になった。

阮さんは本省人で、同事件で父親を失った遺族である。四七年三月、父の阮朝日(げんちょうじつ)さん=当時(46)=は台北市内で五人の男に自宅から連行された。これを最後に、二度と戻ってこなかった。日本で高等教育を受けた父親は事件当時、日刊紙の社長を務めていた。

その後、国民党政権は被害家族が事件について発言すれば拘束すると、恐怖政治で事件を封印しようとした。だが、阮さんは周囲の「危険だから」という注意も振り切り、父の消息を求めて関係者を訪ね歩いた。

■容疑者リスト『地下工作者』2人

事件から半世紀、国民党が反乱を「首謀」したとして二十人の容疑者を挙げた資料を発見した。このリストに父の名前が記されていた。やはり父は「反乱分子」として殺害されていた。

日本人の被害者がいる可能性も、父のことを調べる過程で浮上した。二人の日本人らしき名前がこのリストの最後に載っていた。

一人は「堀内金城」。所属は「(元台湾総督府)工業研究所技師」で、「日本が台湾に残した地下工作者」とある。もう一人は「植崎寅三郎」で「日本が台湾に残した地下工作者」とだけあり、所属は書かれていない。二人とも「台湾人の反乱を策動した」「日本の地下スパイ網を組織し軍政情報を探り出した」との容疑がかけられている。

二人の身元は分かっていないが、リストに載った阮さんの父親や他の台湾人が処刑されていることを思えば、この「日本人」も命を落としたと考えられる。

日本人らしい被害者は二人にとどまらない可能性がある。阮さんはことし、『台湾二二八の真実』(まどか出版)を出版した。その後、数人の日本人から「私の肉親も巻き込まれたかもしれない。調べてほしい」という連絡を受けた。

しかし、阮さんは「父のことを調べるだけで五十年かかった。日本人被害者の実態解明は、もう私の年齢ではできない。後は日本人自身の手に委ねることで、私にとっても一つの区切りをつけたい」と話す。

ところで、なぜ日本人が二・二八事件に巻き込まれた可能性があるのか。

太平洋戦争に敗れ、日本は台湾領有を放棄したが、その後も日本人は技術者ら約七千人、その家族二万人が台湾にとどまった。国民党政権が、日本人を台湾経営の人材として残して利用する「留用」という措置をとったためだった。

■国民党技術利用の裏で弾圧も

「大陸から渡ってきたばかりの国民党には、台湾を治めるための技術やノウハウがなかった。行政事務のほか鉄道事業や工場経営で日本人技術者の力が不可欠だった」。台湾で今春、二・二八事件を扱った著書『台湾・激動の戦後史』を出版した台湾史研究家の末光欣也氏はそう語る。

それにしても、日本人の技術を重宝がりつつ、他方で弾圧するということは矛盾しないのだろうか。

歴史小説『台湾処分 一九四五年』(同時代社)の著者で、自ら三〇年代後半から戦後の四六年まで台湾で暮らした鈴木茂夫氏は、次のように解説する。

「国民党は日本人テクノクラートを利用する一方、政権の正統性を保つため日本の植民地支配を非難し、台湾に残る日本文化を根こそぎにしようとした。日本人を利用することと弾圧することは、彼らにとって本質的に矛盾しなかった」

実際、事件発生後、当時の台湾の行政長官兼警備総司令官だった陳儀(外省人で、後に中国共産党に協力し、公開処刑)は、国民党を率いた蒋介石にあてた手紙の中で「(日本の統治に協力的だった)御用紳士や台湾に残る日本人たちが、反政府活動に加わっている」と二・二八事件と在留日本人を関連づけている。

事件からすでに五十九年の歳月が流れたが、東京都内に住む青木妙子さん(78)=仮名=は叔父(父の弟)が二・二八事件の犠牲者ではないかと考えている。

叔父の名は反乱分子リストに載っていたわけではなく、被害者だった確たる証拠もない。それでも、状況が符合するとみている。

叔父は日本統治下の台湾に渡り、製糖工場の責任者を務め、戦後も現地にとどまった。亡き父は生前、自分の弟が「戦後も国民党から請われ技術を伝えるため台湾に残った」と青木さんに話していた。叔父も「留用」された一人だった。

戦後三年目、叔父一家が帰国したとき、駅には叔母と三人の幼子はいたが、叔父の姿はなかった。

青木さんは叔父が「引き揚げの前日、結核で亡くなった」という叔母の話をずっと信じていた。真実を知っているはずの叔母は何も語らぬまま他界した。

しかし、七年前に死亡した親類の一人が生前、叔父は「病死ではない」と明かしたことがあった。歴史に詳しい知人から「二・二八事件に巻き込まれたのではないか」と指摘されたこともある。今年になって阮さんの本を読み「そうに違いない」と直感した。

青木さんは真相を知りたいと考えているが、厚生労働省の担当者は「戦後、台湾に残った人がいたのは確かだが、日本人が二・二八事件に巻き込まれ、命を落としたかどうかについては調査しておらず、資料もない」と素っ気ない。

二・二八事件の真相解明は国民党の李登輝政権が九二年、刑法を改正し、言論が自由化されるとともに進んできた。二〇〇〇年に国民党に対抗する台湾本土派の民進党が政権を奪い「(二・二八事件は)当時の最高権力者、蒋介石に責任があり、国民党が起こした計画的殺人だった」と断じられるまでになった。

だが、青木さんは一抹の不安を抱えている。〇八年の台湾総統選では、国民党の馬英九主席の当選が有力視されているためだ。

「国民党政権になれば真相解明が進まなくなり、叔父の件も分からずじまいになりはしないだろうか…」