本会の第4回総会、盛会裡に終了
会費値上げ、理事の特別会費、李登輝先生来日記念「日台交流基金」などが決定

桜も五分咲きになった3月26日に東京・千代田区内のホテルで開かれた本会の第4回総会には、小田村四郎会長はじめ理事40名、正会員約140名が参加し、会則改正や事業計画案など4つの議案が審議・承認され、盛会裡に終了いたしました。

総会に先立って開かれた理事会では、新理事(6名)の選任、会費の値上げや理事の特別会費徴収に伴う会則改正、新規事業として李登輝先生来日記念「日台交流基金」を創設する件などが提案され、それぞれ慎重な審議を経て、総会でも承認されるに至りました。総会の詳細につきましては、機関誌『日台共栄』4月号(第12号)にてご報告いたします。

遠く青森や新潟、関西からも駆けつけていただき、また混乱もなく盛会裡に終えることができました。この場を借りて改めて深謝申し上げます。

総会後には、阿川弘之名誉会長が「台湾の思ひ出」と題して講演、また、台湾の姚嘉文・考試院長が「台湾の現状と今後の展望」と題してゲスト・スピーチされました。

メールマガジン「台湾の声」で記念講演や懇親会の模様が紹介されましたので、ここに転載してご紹介します。

また、本会理事で本会神奈川県支部の石川公弘支部長(石川台湾問題研究所代表)がブログ「台湾春秋」で、阿川弘之名誉会長の講演を紹介していますので、併せてご紹介します。


日本李登輝友の会総会記念講演と懇親会

26日、桜咲く市ヶ谷の私学会館で日本李登輝友の会の第4回総会が行われ、記念講演では阿川弘之名誉会長が「台湾の思ひ出」という題で、海軍時代に経験した台湾を戦後訪れ、「中華民国」体制下にあっても日本人だと断言した台湾の友人の話や、戦後、近所に住んでいた青年夫婦が台湾の民主化運動、独立運動に情熱を傾けていた話、李登輝前総統と会って、政治家というよりアジアで最高の教養人であったという印象を紹介した。

また、5月の李登輝前総統来日について、盛大に歓迎し、李登輝さんには奥の細道で静養していただきたいと、李登輝前総統の体を気遣った。

ゲストスピーチに立った、姚嘉文(よう・かぶん)考試院院長は、日本人が台湾で生まれると、出生地が中国とされているという問題を紹介しつつ、これまで国民党が誤解を与えてきた台湾の憲法なども改める必要があると語った。日本は1964年2月の予算委員会で、池田大臣が「台湾は中国ではない」と答えている。国民党政権下においては「台湾は中国ではない」という事実を言っただけで、軍事裁判で12年の刑を宣告された。民進党政権では政治犯は一人もいない。台湾が混乱しているように見えるのは国会の中だけであり、台湾の国民は、問題を選挙で解決できることに満足していると語った。

李登輝前総統が「内戦」状態を終結させ、北京政権の合法性を認めたのに、今の国民党は、「一つの中国を中華民国が代表している」という蒋介石時代に逆戻りしている。馬英九の発言は、国民党の過去、連戦主席時代の逆コース路線に縛られたもの。2008年の選挙に候補者を出すならば、北京政府を認めながら「一つの中国を中華民国が代表している」という国民党の見解の矛盾を解決しなければならない。「一つの中国」は国民党の見解に過ぎず、民進党の候補者は誰であれ、民進党の過去の決議で「台湾と中国は別の国」としていることを尊重しなければならないと語った。「日本の皆様に、台湾の正名運動を引き続き支持して欲しい」と訴えた。

懇親会では、許世楷大使の弟でもあり台湾独立建国連盟が米国で発行している『公論報』発行人である許世模氏がスピーチし、台湾語で普段話しをしている子供たちに内緒の話を夫婦でする時には、中国人化教育で習った中国語を使うというエピソードを紹介した。
また、9月に正名運動のデモを行うので日本でも支持して欲しいと要請した。

地方議員も複数スピーチし、李登輝前総統来日についての期待、台湾の帰属について中国の一方的主張に基づく間違った教育が行われないように奮闘しているというという報告がなされた。

閉会の挨拶に立った副会長の岡崎久彦元大使は、中国の軍備増強が心配。たとえば尖閣諸島は無人島なのでまわりから守るしかない。もし五分五分の実力なら守りきれるかどうか、危ない。財務省は去年、自衛隊の艦船と船舶の予算を切っている。少なくとも東シナ海の軍事バランスに関わる部分で防衛費を削減することには問題があると、日本の防衛予算について危機感を表明した。

最後に林建良常務理事は、日本李登輝友の会は単に李登輝先生のファンクラブではなく、李登輝先生の名前を借りて日本再生をしていく会である。自分も台湾建国が人生の価値であるとして、共に国づくりを行うことを訴えた。李登輝前総統の来日は、日本人の心に火をつけに来るのであり、また日本という価値を世界に知らせに来るのだという見方を示し、日台両国がそれぞれ立ち上がり、団結することを祈念して万歳三唱の音頭をとった。(3月27日付・メールマガジン「台湾の声」より転載)


阿川弘之さんの語る「台湾の思ひ出」 石川公弘・本会神奈川県支部長(石川台湾問題研究所代表)

李登輝前総統とお会いして大教養人を実感
3月26日午後1時から、日本李登輝友の会総会が、市ヶ谷のアルカディア市ヶ谷で開催された。総会終了後、二人の講師による講演会が開かれたが、聴衆を酔わせた文化勲章受章作家・阿川弘之さんの“台湾の思い出”という軽妙な話を、場の雰囲気はとても伝えられないが、紹介したい。(メモと記憶が頼りなので、多少の誤りはお許しを)

私は台湾を3回しか訪問したことがありませんが、たいへん心に残っています。1回目は、昭和17年9月のことです。対米戦争が勃発し、大学は昭和18年3月卒業の予定が、半年繰り上がりました。そのとき志願して海軍予備学生となり、500名の仲間と共に訓練を受けるため、佐世保から台湾の高雄へ向ったのです。アルゼンチン丸という船でした。

高雄港から汽車で東海岸にある東港というところへ向い、終点一つ手前の大鵬(オオトリ)という駅で降りました。そこは97式という最新鋭飛行艇の基地で、当時飛行艇は前線へ出ていたので、空き家となっていました。その基地で、江田島と同様な海軍将校としての基礎訓練を受けたのです。戦時下でしたが、台湾には何でもありました。ビフテキはなかったけどトン(豚)テキがありました。蓬莱の島・宝の島を実感しました。実るバナナ、水牛の背に止まる白鷺の風景などが、目を楽しませてくれました。

分刻みの厳しい訓練を癒してくれたものに、現地の人たちとの交流がありました。台湾の東港小学校女生徒も訪問し、合唱を聞かせてくれました。“一茶のおじさん”という歌を二部合唱できれいに歌ってくれたことを、いまも覚えています。(阿川さんは、“一茶のおじさん”を歌うかのように諳んじられました。)

一茶のおじさん、一茶のおじさん、あなたのお国はどこですノ?
ハイハイわたしの生まれはノオ 信州信濃の山奥の そのまた奥の一軒家
すずめと遊んで居りますジャ

そのとき、一緒に訓練を受けた同期の桜500名のうち、100名が戦死しました。

いつかまた台湾を訪れてみたいと思っていましたが、その機会に恵まれませんでした。しかしその間に、不思議なご縁をいただきました。昭和32年のころ、私たち家族は東京・鷺宮の公団住宅に住んでいましたが、近所に許さんという台湾人の家族がいて、とても親しくしていました。娘(編集部注:阿川佐和子さん)などはそのお宅の娘さんと、とても仲がよく、いつも遊んでいました。家族が多くなり、そこから引っ越した後も付き合っていました。ご夫婦で、台湾の独立運動や民主化運動をしているため、台湾へ帰れないというお話でした。その方は、数十年後に台湾の駐日大使になられました。そのご夫婦が、今ここにいられる許世楷大使ご夫妻です。ありがたい不思議な縁をいただいたものです。(満場拍手)

2回目の訪問が実現したのは、昭和51年のことで、最初の台湾訪問から、すでに33年が過ぎていました。ブラジル大使をされていた郭少将から、“丹陽(タンヤン)先生”と、今も私が呼んでいる人を紹介してもらいました。この丹陽先生、少年工出身ということで、海軍大好き人間です。日本海軍の艦船をすべてシルエットで覚えているのには、びっくりさせられました。

私は思い出の東港へ向いました。あのとき、“一茶のおじさん”を歌ってくれた少女たちに会いたいと思いました。40歳前後になったはずです。きれいな特急列車が走っていました。東港のまちを、その人たちを探しながらぶらぶらしていると、当時の校長先生に偶然お目にかかりました。元校長、今の私のように杖を頼りにしておられましたが、とてもお元気で、「今夜うちへ泊まれ」というのです。お伺いして尽きぬ話をしましたが、私が台湾の年号に合わせて、“民国~年”なんて言おうものなら、“昭和で言わねばわからない”です。“負けたとき、負けたとき”と言われたのも印象に残っています。まだ意識が日本人なのですね。(笑い)

さて、丹陽先生ですが、本名ではありません。彼は戦後、台湾の港になんと帝国海軍の“雪風”を発見したのです。戦艦大和の特攻出撃に随伴した雪風は、奇跡的に無傷で助かり、中華民国へ引き渡されていました。そんな事情は知らない丹陽先生、スパイもどきに港へもぐり込んで、その船が正真正銘の雪風であることを確認しました。とてもうれしかったそうで、生まれてきた子供に、“丹陽”と名付けたそうです。航空隊の施設を見せてもらおうと思いましたが、あいにく日曜日で、許可権限をもつ人が居らず、外から眺めて帰りました。

3度目は、2001年3月のことでした。そのころ、親しくしている深田祐介という作家から、昭和天皇のご逝去に当たり、世界の元首の中で一番深い哀悼の意を表した人は、李登輝台湾総統だという話を聞いて、涙しました。金美齢さんからも、いろいろと李登輝さんの話を聞いていました。ある会合で、私が李登輝さんはアジアでナンバーワンのステイツマンだと言いましたら、いや世界一だと修正されたこともあります。(笑い)

その直後、台湾の蔡焜燦さんから、もう一度、ぜひ台湾へいらっしゃいと誘われ、私ども夫婦や娘、それに娘の友人の檀ふみ(女優、父は作家の檀一雄)などと訪台しました。花蓮港やタロコ渓谷などをめぐりましたが、タロコ渓谷の雄大さにはびっくりしたものです。その時、家族全員で李登輝さんのお招きにあずかりました。優れた政治手腕の前に、人間として大教養人であることを実感しました。そんな縁で日本李登輝友の会の初代会長をお引き受けした次第です。

このたび、李登輝さんの奥の細道を訪ねる旅が決まり、心から喜んでいます。ほんとうにうれしい。熱烈な歓迎も結構ですが、できるだけ静かに、裏からそっと大歓迎ができないものかと思案しています。私たちの年齢になると、結構疲れるものですから。(笑い)

本日はありがとうございました。