これまで中学校の地図帳問題で、シェア第一位を占める帝国書院の『新編中学校社会科地図』が台湾を中華人民共和国の領土と表記し、台湾を中華人民共和国の一部とする資料を掲載していることに対して、本会は機関誌『日台共栄』編集部で質問状を提出したり、緊急国民集会を開催するなど、是正勧告を行ってきました。

帝国書院のホームページを見ても、台湾の名前はどこにも出てきません。帝国書院は、この地球上から完全に「台湾」を抹殺していることがよくわかります。

本会が本年7月4日付で出した質問状には、電話で「必ず返答する」と答えながら、未だに返答が届いていません。なんとも不誠実な対応です。

ところが、帝国書院が発行している『地理・地図資料』の10月号(№162)に、台湾と中国は別々の国だという観点から執筆した論考が掲載されていることが判明しました。この「台湾の歴史から台中関係を見る」と題された論考は、台湾から早稲田大学大学院に留学している鄭任智君が執筆したものです。

留学生の論考とはいえ、「台湾」を全ての資料から消し去っている帝国書院の首尾一貫しない対応が伺えますが、台湾は日本と国交が途絶しているとはいえ、外務省が編集協力している『世界の国一覧表』でも「その他の主な地域」として扱われ、現実に台湾から留学生も来日しているのですから、このような台湾を無視した対応は早急に改められるべきはいうまでもありません。

因みに鄭君は、帝国書院が昭和57年(1982年)に設立した「守屋留学生交流協会」の第21回奨学生だそうですが、この論考を読むと、台湾の歴史と相俟って、台湾が抱えている難問がなんであるかよくわかります。もちろん、中国とは違う国であることもよくわかっていただけるのではないかと思います。こういう留学生が増えつつあることに、ある種の感慨を覚えます。ここに全文を掲載します。


「台湾の歴史から台中関係を見る-守屋留学生交流協会奨学生の記」

早稲田大学大学院生 鄭 任智

台湾と中国には深い因縁がある。歴史的・地理的要素により、台湾と中国にはよく似た言語・文化・風俗・習慣があり、外国人に同じ国ではないかと混同させる。また、90年代以降、中国へ進出する台湾企業が急増し、経済面で相互不可分の深い繋がりが見えてくる。しかし、台湾では、台湾と中国は実質的に一つの国家にあらず、別々の国家であると考える人が大多数であるが、台湾の歴史を踏まえた視点から検討していきたいと考える。

●台湾の歴史
1624年、オランダが貿易の拠点として台湾島の西にある澎湖(ホウコ)諸島に東インド会社を設立し、後に台湾本島に移した。その2年後(1626年)、スペインも台湾北部を占領し、南部のオランダと植民・貿易競争を繰り広げた。

1662年、清国軍によって父が幽閉、母が自害に追い込まれた鄭成功は、異民族王朝である清を認めず、漢民族の明帝国の再興を果たす「反清復明」を旗印に一族を率いて台湾へ脱出、オランダ人を追い出して鄭王朝を築いた。

1683年、清国によって鄭王朝が滅ぼされ、台湾は清国に統治されることになった。しかし、清国によって台湾に派遣された総督・官僚は、住民との融和を目指さず、高圧的な悪政を行った。その結果、現地民による武装蜂起は絶えず、「三年に一小反乱、五年に一大反乱」といわれるほど、清国の台湾統治は荒廃・混迷によって彩られていた。

1895年4月、日清戦争に敗れた清国は下関条約で、台湾を日本に割譲した。清国政府はこの重大な事実を台湾の官民に対して事前に知らせることはなかったため、清国に一方的に放棄された現地民は、台湾独立宣言に基づいて「台湾民主国」を樹立した。しかし、諸外国からの承認を得られなかったため、日本軍の鎮圧により僅か4か月と26日間で消えたのである。

1895年から日本統治時代となった台湾は領有初期における土匪反乱が鎮圧された後、鉄道・道路・港湾・空港・発電所・通信システム・ダム・下水道などという近代化の基礎となるインフラ整備が進められ、また台湾教育令の公布・施行によって台湾人が系統的な学校教育を受けられるようになり、教育の普及と教育水準の向上がもたらされた。内地延長主義に基づく植民地経営であったはずだったが、近代化の促進と社会変革に伴って台湾は日本化・近代化し、台湾人の意識や精神構造を大きく変貌させ、半世紀前の清国時代における台湾人のそれと大きく異なるようになり、また同時代の中国人との質的差異が広がっていった。

1945年、日本の敗戦とともに、台湾は中国国民党軍に接収され、進駐されることになるが、その接収は連合国軍最高司令官マッカーサーの一般命令第一号に基づく「一時的接収」に過ぎなかったため、後に台湾地位未定論や台湾独立論を形成する要因となった。

やがて中国共産党軍に敗れた国民党軍が非戦闘員である家族等も引き連れて台湾に流れ込み、あたかも清国軍に破れた鄭成功のように「反攻大陸」(大陸に攻め込み国土を取り戻す)をスローガンに、そのまま亡命政権として居座った。戦後の台湾は国民党一党独裁の下で圧政が加えられ、1947年に起きた台湾人虐殺事件「228事件」を引き金に「白色テロ」が行われ、1949年から1987年までの38年間もの長きにわたり戒厳令が布かれた。蒋介石の息子・蒋経国が1987年、戒厳令を解除し、民主化が始まった。

後を継いだ李登輝総統は野党の合法化・大陸出身の万年議員の引退・立法院の全面改選の実現など急テンポで民主化・自由化を進めた。また1996年の総統直接選挙で、それまで国民大会(国会)が選出していた総統を、国民投票で決めるようになった。台湾史から見ると、植民地史は1996年の一回目総統直接選挙によって終結した。

台湾は2000年に初めての政党交代によって、ようやく真の民主国家として歩み出したが、台湾を主体として考える本土イデオロギーと大中国イデオロギーとの対立が絶えず、まだまだ解決すべき課題が多いのである。

●中国の台湾に対する四つのmyth(思いこみ)
中国は80年代以降、特に米中国交樹立・米台断交の後、台湾を奪取しようと様々な手を打ってきた。また、中国で資本主義化による経済成長と共にやってきたのは、古来の「大一統」思想である。そこで、中国が「台湾統一」を国家目標としたがっているのは、主に下記の四つのmythによるものであると考えられる。

1、血縁祖国というmyth
中国人は血縁を語るのが好きで、よく親子関係で中台関係を例えるが、大部分の台湾人は平埔(ヘイホ)族と漢族の混血であることを知らない。また、例え祖先が同じでも親子という隷属関係は全く存在しないのである。

2、中華民族というmyth
中国人はよく民族概念と国家概念を混同し、台湾人を中華民族にしようとする。しかし、内モンゴルや青海にいるモンゴル人は間違いなく中華民族に属するが、モンゴル共和国にいるモンゴル人は中華民族ではない。それと同じように、台湾は現在「中華民国」という国号であるが、中華民国の国民は中華人民共和国の国民ではないというのは事実である。中国は台湾の自由意志を無視し、台湾人を「中華民族」という範疇に収めようとするのは、台湾に対する帝国主義を民族主義で装っていることになる。2005年3月、中国によって出された『反国家分裂法』はその顕著な例であると考えられる。

3、文化母国というmyth
中国人はよく台湾の文化的母国であり、一つの国家になるべきだと言っている。しかし、言語や文字というのはコミュニケーションの道具であり、政治的帰属とは無関係である。でなければイギリスはアメリカや大英帝国時代に統治していた国々の母国となってしまい、その国々を統一しなければならなくなる。中国では西暦紀元に改め、クリスマスを祝っているのに、台湾が旧正月や端午、中秋を祝うことを統一の事由にするのは、説得力に欠けている。

4、台湾主権所持というmyth
中国の『一つの中国原則及び台湾問題白書』は対日宣戦布告やカイロ宣言、ポツダム宣言などに沿って台湾の主権を中国が所有すると論述しているが、主権転移に関わる、国際法において最も重要な戦後条約であるサンフランシスコ平和条約に言及していない。宣戦布告は中国による一方的政治宣告であり、台湾主権の帰属に無関係である。カイロ宣言は重慶政府が発布した新聞原稿であり、それにサインした国家はない。ポツダム宣言は中国の要求に応えるべくカイロ宣言の内容を遡り認めようとしたものである。台湾の主権が戦後になったら中国に属するということは戦前の連合軍の国々の意向であろうが、戦後になっても実現に至らなかった。前述した通り、当時の中華民国政府は連合国軍最高司令官マッカーサーの一般命令第一号に基づいて台湾を接収しただけで、ソ連の中国東北部接収やアメリカの日本接収と同じく、主権移転という効力はなかった。1951年のサンフランシスコ平和条約でも1952年の日華平和条約でも日本は台湾と澎湖の主権を放棄することを承認したが、中華民国に移譲するとは言及していない。

●結
このように台湾の歴史は400年近く植民地史であった。こうした状況は戦後にも続いていたが、80年代以降、台湾人は自らの手で自らの国家として築き上げようとしている。現在の台湾は民主的・自由的国家として知られているが、国際的には国家としての権利を享受していない。また、国民党によって堅持されてきた「中華民国」の国名と憲法という「虚構」は、台湾が一つの正常な国家となることを阻害し、難しい問題となっている。こうした諸問題は本土意識の凝集と民主・人権の重視によって次第に解決できると考えられる。