日本李登輝友の会事務局長 柚原 正敬

◆台湾正名運動発祥の地は日本
台湾に興味がある人ならともかく、大方の日本人にとって「台湾正名運動」とはあまり聞き慣れない言葉かもしれない。台湾正名運動とは、台湾を主体的とした意識の確立をめざす台湾意識覚醒の運動をいう。具体的には、その国名を「中華民国」から「台湾」に改め、新しい憲法を制定し、台湾名による国連加盟などをめざしている。そもそも、台湾正名運動発祥の地はこの日本である。当時、在日台湾同郷会の会長をつとめていた林建良氏の発案による。

21世紀を迎えた一昨年(平成13年)6月9日、在日台湾人の外国人登録証明書の国籍記載が「中国」となっていることに耐え難い屈辱を覚えていた林氏ら在日台湾同郷会の人々は、その国籍記載を中国から台湾に改めることを求めて「正名運動プロジェクトチーム」を組織して訴えたのが発端である。それが台湾本土に移り、昨年5月11日、母なる台湾への回帰を願い、「母の日」に因んだこの日、台北市に35,000人が集まってデモ行進を行った。そのときの総召集人(総呼び掛け人)が李登輝前台湾総統である。李登輝氏自身は事情で参加できなかったが、寄せられたメッセージにこの運動の趣旨がよく現れている。〈台湾は一つの独立主権国家であります。台湾は中華人民共和国の一部分ではなく、中華人民共和国の一つの省でもありません。私は1999年7月に「ドイツの声」テレビの単独インタビューを受けた際に、歴史,政治、法律など多方面にわたって、はっきりと説明しました。海峡の両側は「特殊な国と国との関係」である、と。すなわち、台湾と中華人民共和国とは二つのそれぞれに独立した国である、と述べたのであります。中華人民共和国は、一日たりとも台湾を統治したことはなく、一文たりとも台湾から税金を徴収し得なかったのであり、台湾に対して主権を主張する権利はない。台湾は、すべての台湾人民の台湾です。〉

◆サーズで延期するも日本では実施
本年も5月11日の母の日に、10万人規模で台湾正名運動を開催すると、昨年のその日のうちに総召集人の李登輝氏は闡明していた。しかし、春先からの「中国肺炎」ことサーズ騒動で9月6日に延期された。ただし、日本では在日台湾同郷会や在日台湾婦人会を中心に、日本人有志も協力して「511台湾正名運動実行委員会」(委員長・陳明裕在日台湾同郷会会長)が組織され、5月11日、外国人登録証明書の国籍記載の改正と台湾のWHO(世界保健機関)加盟推進を訴え、杏林大学の伊藤潔教授が車イスに乗って参加するなど、約三百人が新宿区内をデモ行進した。李登輝氏から懇篤な感謝のメッセージが届けられたことも印象深かった。3日後の5月14日、陳明裕実行委員長は森山真弓法務大臣宛の「外国人登録証明書における台湾人の国籍表記改正を求める要望書」を法務省に手渡し、日本における正名運動を展開して、九月の大会に臨んだのだった。

◆日本李登輝友の会が公式初訪問
9月6日、台湾はまだ真夏である。台北の予想最高気温は37度。朝から雲ひとつない快晴だった。朝のうちはそよいでくる風が心地良く感じられたのだったが、その風が熱風と化してしまうことは後述する。日本からの参加者はデモ行進の出発点である中正紀念堂に集合していた。出発は正午を予定していたが、日差しが強くなる前にと、10時半前に中正紀念堂に着いた。

昨年12月に発足した私ども「日本李登輝友の会」(阿川弘之会長)も、小田村四郎副会長を団長に常務理事の黄文雄氏や林建良氏(日本総指揮)など53人が参加。会として初めての公式訪台団でもあった。阿川会長もこの台湾正名運動を強く支持し、公式訪台団の成功を期待するメッセージを寄せてくれていた。また、8月31日に発足したばかりの「日台関係を促進する地方議員の会」(略称・日台地方議連)も公式訪台団として参加した。設立後、はじめて取り組む活動が台湾正名運動であり、名取憲彦会長(東京都議)、和田有一朗事務局長(神戸市議)をはじめ、北海道から沖縄までの有志議員20人が参加していた。日台地方議連はまた、石原都知事から李登輝氏に宛てたメッセージを預かって参加したのだった。さらに、金美齢氏が30人ほどの参加者を率い、在日台湾婦人会からも約30人が参加、現地集合の参加者を加えると、日本からはやはり300人ほどが参加したようだ。

日本人応援隊は5月11日のデモ行進で掲げた「台湾のWHO加盟を支持する」などと書かれた横断幕やプラカード、あるいは日章旗や団体旗を掲げ、予定どおり正午に出発。デモ行進の先頭には、小田村団長、名取会長、金美齢氏、林建良氏、李登輝氏の台北高等学校の同級生で日本李登輝友の会・新潟県支部長の伊藤栄三郎氏などが立ち、総統府前の広場をめざして行進していった。それにしても、この日の暑さは半端ではない。車道の片側を行進しているので、天をさえぎるものはなにもない。灼熱の太陽が容赦なく照りつける。コンクリートの地面は熱く焼かれ、照り返しがきつい。午前中までそよいでいた風が熱風と化して襲ってくる。アッという間に全身汗みずくとなった。水を飲んでもすぐに喉が渇く。高齢の方には疲れたらゆっくり歩くか、リタイアすることを勧めたのだが、総統府前広場まで一時間半、ほとんどの方が一緒に行進したのには少々驚かされた。

◆台湾史上初の大規模デモ
このデモ行進は中正紀念堂や国父紀年館など台北市内7ヶ所から出発、仁愛路、中山北路、信義路などの幹線道路から、会場である総統府前のケタガラン(凱達格蘭)大道を仕切ってつくられた広場をめざして集結した。雲霞のごとく、とはこのことか。総統府前の群集はもとより、その周辺にも、台湾全土から集まった人々が行き交っている。木陰にも、冷房の効いたバスの中にも人、人、人だ。後から後から人が湧いてくる。いったい何人が参加しているのだろうか。

式典の途中で司会者から参加者15万人と発表され、会場内はどよめいた。当日および翌日の統一派系のメディアでさえ10万人以上と伝えていた。ともかく、台湾の歴史はじまって以来初めての大規模デモだった。私ども日本隊は会場の正面左側に用意されたイスに座り、この台湾正名運動の総召集人である李登輝前総統の登場を待っていた。その間も、容赦なく太陽は照りつけている。午後1時40分、家族を連れて一緒にデモ行進に参加した李登輝氏が会場に着いた。群衆の盛り上がりは最高潮に達し、「タイワン(台湾)!レンハプコク(連合国=国連)!」、「タイワンラン(台湾人)!タイワンコク(台湾国)!」、「アフイペアーカーユウ(阿輝伯加油=李登輝さんガンバレ)!」というシュプレヒコールが鳴り響いた。李登輝氏はまず広場の真ん中に作った通路を往復して、集まった人々に挨拶して回る。それから壇上に立った。曽文恵夫人や国策顧問で全国共同招集人である黄昭堂氏、日本から駆けつけた同じく国策顧問で日本の招集人である金美齢氏などが共に壇上に並び立っていた。

8月末、日本から主治医である倉敷中央病院の光藤医師が渡台して心臓のカテーテル手術を施している。それからまだ半月と経っていない。手術後初めて公の場に姿を現したという。満を持しての登壇だったようだ。血色はよく、その声にも張りがあった。演説の内容は「中華民国不在論」だった。群集は寂として聞き入っている。ときどきワッと歓声があがり、拍手が起きる。台湾語を理解できない私に対して、林建良氏がポイントのところを同時通訳してくれた。李登輝氏は、中華民国の歴史と台湾が無関係であることを史実にのっとって説明していた。

翌七日の「台湾日報」に掲載された演説内容の邦訳も参考に紹介してみたい。〈第一に、中華民国が1911年に建立されたとき、台湾は含まれていなかった。第二に、1945年の第二次世界大戦終了後に中華民国は台湾を軍事占領した。当時、台湾は無主の地で、台湾の国際地位は未確定だった。第三に、1949年、中華民国の領土は中国共産党に占領され、中華民国は領土を失った。事実上、中華民国の国号だけが台湾に残った。しかし、1971年に中華民国が国連から追放されてから、中華民国は国際社会から消失してしまった。これが中華民国が存在しない歴史の事実だ。〉

李登輝氏はまた、台湾正名運動の本質に触れ、次のように述べる。言葉はわからないものの、演説に熱が入っているのがよく伝わってくる。

〈中華民国はただの国号で、国家ではない。台湾は暫時「中華民国」という国家の名前を借りているだけだ。過去に、台湾の国家体制は外来政権によって決められていた。現在、本土政権の執政が3年経ち、この台湾の土地に住む人民によって国家の名前が選択されるべきときが来た。国家の名称は一種の身分アイデンティティのようなもので、台湾は「正名」することによってはじめて国家発展の目標が確立できる。私は誰よりも深刻にこの問題を認識している。内政や外交で遭遇する数々の困難は、すべて「中華民国」という事実と符合しない国名が関係している。これを解決するには必ず「台湾」と名を正すことからはじめなければならない。これが台湾正名運動の総召集人になった理由だ。国家のために、国号を事実と符合させなければならない。〉因みに、511正名運動聯盟は李登輝氏に演説原稿を用意していたという。しかし、李氏は「中華民国が存在しないのははっきりした事実なのに、まだたくさんの人がわかっていない。責任をもって自分で話します」と断り、自ら演説用の原稿を執筆したと漏れ聞く。この台湾正名運動にかけた李登輝氏の思いが伝わってくるエピソードだ。そうでなくては、あの迫力は出まい。

◆同じ悩みを抱える台湾と日本
またこの日、511台湾正名運動聯盟は共同声明を発表、政府に対して、次の7項目を提示している。昨年も、台湾人であることに誇りを持つような学校教科書の制定や、新憲法制定および国号変更など七項目の声明を発表している。台湾正名運動が具体的に何をめざしているのかがよくわかるので、ここにその全文を紹介してみたい。

〈1971年10月25日、2758号の決議が国連を通過した後、中華人民共和国が即時国連における中華民国政府の議席に取って代わり、これ以降、中華民国は国際舞台から消え去り、国際社会もまたわれわれの国を公認し始め、これを台湾(Taiwan)と呼ぶようになった。

かような歴史の発展により、台湾は事実上一つの国家になっている。したがって、台湾人の国際的ステータスは台湾人が自分で決める。台湾人の国の名前も自分で決める。511聯盟は「名実が相符合して尊厳が世に定まる」の原則を堅持し、政府に対して謹んで以下7項目の正名を行うものである。

一、台湾の名称で国連への加盟を申請し、一日も早く国連加盟国となって国際社会の権利と義務を享有するすることになるよう、外交部が即刻宣言することを要求する。

二、「駐外代表処の名称を台湾に改正する」の指示を具体化すべく、タイムテーブルを作成することを、外交部に対して要求する。

三、国営企業の正名作業進度表を作成するよう政府の関係機関に要求する。

四、立法院に対して、できるだけ早く、制限を設けない「公民投票法」を通過させるよう要求する。

五、2004年の総統選挙において、台湾本土民主政権の延長を期すべく、われわれは「台湾、中国、それぞれ一国」を主張する総統選挙候補者の当選を支持する。

六、2004年の総統当選者が憲法制定委員会成立日程を策定、「新憲法を制定し、国家としての台湾の国名を正す」ことを要求する。

七、511聯盟は上記声明に関して経常的に政府をチェックし、2004年5月9日の「母の日」において「行動する総統府、新国家を求める」キャンペーンをくりひろげ、台湾人民のより確固たる決意を表明する所存である。
台湾は中華人民共和国の一省ではなく、台湾は主権独立の民主国家である。どのような民主国家も公共の意思によって国名を決定することができる。エスニック・グループの別を問わず、全国民が団結して国家のアイデンティティを確立し、台湾の国名を以って国際社会に歩を進め、新しい時代を迎え、新しい国家を築き上げるよう、われわれは訴えるものである。〉

これらの項目を見ればわかるように、台湾が抱えている問題は日本の問題とよく似ている。国号問題こそ違え、憲法問題、教科書問題など、国民としての誇りを取り戻そうという点では、まったく変わらない。それが日本人の共感を呼ぶ。 台湾は台湾人としてのアイデンティティを求め、日本は歪んだ歴史認識を正そうという、ほとんど同質の悩みを共有しているのである。台湾の親日ぶりがその共有感を深めている。これが、安全保障上の問題とも絡んで、日本人が台湾を大事だと思う所以の一つでもある。会場からの帰り道、若いカップルに「日本からですか」とたどたどしい日本語で声を掛けられた。そうだと答えると、満面の笑みをたたえて「有難うございます」という。こんな一事に、台湾が確実に変わってきていることを実感させられる。十五万人という数字がけっして誇大ではないことを肌身で感ずるのである。

9月17日、李登輝氏は台湾正名運動について「2008年から2010年までに解決したい」と、時間的目標を明らかにし、また、来年3月の総統選前に50万人規模の集会を開くことも発表した。「台湾の父」李登輝氏による意識変革運動は、総仕上げの時期に入ってきたといってよい。

 『月刊日本』掲載