櫻井よしこ『週刊ダイヤモンド』2002年12月7日号および2002年12月14日号掲載

「 台湾前総統訪日拒否をめぐる交流協会“態度豹変”の背景 」

『週刊ダイヤモンド』 2002年12月7日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 472回

台湾には、世界のどの国と比べても際立つほどの、親日感情がある。加えて、日本の書籍や雑誌を丹念に読み、日本の現状に注目し続ける知識階級が存在する。

国際社会でこれほど日本を識り、親しい気持ちを抱いている人びとは少ないが、そうした台湾人の代表が、李登輝前総統であろう。李氏は11月の慶應義塾大学「三田祭」で講演する予定だったが、周知のように予定はキャンセルされた。11月19日の産経新聞が、実現されていれば李氏が語ることになっていた講演内容を、全文掲載した。本当に心打たれる内容だった。

「日本精神」こそが、「日本人が最も誇りと思うべき古今東西を通じて変わらぬ普遍的価値」と位置付け、そのすばらしい価値観の具体例として、故・八田與一について語っている。

八田與一を知っている日本の子どもたちは、いったいどれほどいることか。過去の日本の全否定が常識となっている戦後の日本で、20世紀初頭に台湾に渡り、15万ヘクタールを灌漑し、荒地を肥沃な穀倉地帯に変えた人物のことなど、忘れ去られてきたといってよい。

日本で忘れ去られた八田を、李氏はいまだに台湾の“60万人の農民から神のごとく祭られ”ている、と紹介する。以前、現職の総統だった李氏に取材したときにも、八田の灌漑工事と、その延長線上に生まれた石門ダムについて聞いた。台湾のために働き、尽くした八田と、その八田を育んだ“日本精神”への深い想い、畏敬の念は、李氏の心からのものなのだ。

李氏のこの講演を学生たちに聞かせる機会を逃したのは、返すがえすも残念だった。なぜ、こんな事態になったのか。李氏のビザ申請に台湾側で動いた、鐘振紘氏が語る。

「慶應の学生たちから講演依頼があったのは9月でした。李前総統は若い学生たちの招待に嬉しそうでした。10月15日にその学生さんが、金美齢先生とともに訪ねてきました。日本がもっと自信を持ってアジアのリーダーとして頑張るような気持ちになれるように、将来を担う学生たちに日本精神について語ってほしいと頼まれました」

李氏は原稿を書き始めた。A4用紙に、鉛筆ですべて自筆で十数枚を書いた。現代の日本人にはなかなか書けなくなった旧字体の几帳面な原稿を、ワープロに打ち直したのは鐘氏である。

一方、どこから情報を得たのか、日本の対台湾窓口である交流協会の内田勝久所長が、いつビザ申請に来るのかと問い合わせてきた。

「内田所長はきわめて前向きで、11月1日から4日まではご自身が上海に旅行に行くので、その間をはずして申請に来てほしいと、私に言いました。
では、内田所長の休み明けにうかがいますと、私は答えました」

鐘氏はさらに、内田所長が観光目的で数次ビザを申請するのがよいと、助言したという。
「11月8日の金曜日に私は内田所長に電話し、11日の月曜日に申請に行くと言いました。そのとき、様子がちょっと変だと思ったんです。そのときは知りませんでしたが、あとで、東京では7日に、三田祭実行委員会が、李先生を招いた学生組織の経済新人会に、講演会は中止だと言い渡していたことが分かりました」

翌12日、内田所長は「日本に行っても講演する場所がない」「申請書は持ち帰ってほしい」と鐘氏に伝え、13日には「さらにたいへん強硬な姿勢」に転じたという。同日午後には内田所長の部下が鐘氏を訪ね、「再申請してもビザは出さない。講演ではなく日本に行くのが目的だ」とさえ断定したというのである。

数次ビザの申請を勧めていた交流協会の態度豹変の背景には、じつは思いがけないことがあった。


「 慶應は福澤翁の精神を忘れ政治の思惑に屈服したか 」

『週刊ダイヤモンド』 2002年12月14日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 473回

「自分の面子にこだわって、李登輝さんの訪日を妨げた人がいる」

台湾総統府国策顧問の金美齢さんが、こう言って憤っている。

台湾人を弾圧した蒋介石総統下の国民党政権時代、その反国民党政権の言動ゆえに祖国に戻ることさえできなかった金さんは、自由を愛する精神で自らを支えてきた台湾人だ。李前総統は11月の慶應義塾大学「三田祭」に学生組織、経済新人会から講師として招かれたが、ビザが発給されず来日を断念した。これについては前号で触れたとおりだが、そのきっかけが面子という個人の“エゴ”だったというのだ。

事は「産経新聞」が、三田祭講演で李氏訪日の予定と報じた10月2日に遡る。日本の大学祭のなかでも最大規模の三田祭は、伝統的に学生の自主運営によってきた。自主独立を説いた福澤翁の教え、躍如である。

伝統に則して経済新人会の学生たちは、同じく学生が構成する三田祭実行委員会には講演企画を報告したが、大学当局にはしなかった。大学側が事情を知ったのは新聞報道においてだ。

あわてた、と思われる大学側は、なか1日置いた4日早朝、総合政策学部の小島朋之学部長(教授)が李氏側に、来日再考を促すメールを送った。メールのコピーを手に、金氏が語った。

「小島教授は、事前の連絡が皆無、準備期間もなく困惑、自分と国分(良成)教授の面子が失われると書いて、せっかくの、学生たちによる李前総統への招待を退けようとしたのです」

小島学部長が反論した。
「金氏が、私のメールを記者会見で暴露したのは失礼なことです。李氏側に私が伝えたのは4点です。通知のなかったことは、従前の李前総統と私の交流の実績からみて遺憾で、私の面子は失われたこと、時間的に今回は準備が困難なこと、ゆえに訪日は再考してほしいこと、将来のことなら時間をかけて準備、歓迎したいということです」

李氏の代理人である鐘振紘氏は、しかし、小島、国分両教授が李氏訪日阻止のため“手を尽くした”と述べた。
「李氏を説得しに、10月12日に台湾に来ると言われました。13日に二人揃って李氏に会わせてほしいと。後ろ向きの説得なら会わないと言って李氏は断わりました。お二人とも中共への気兼ねでしょう。ご苦労なことです」

小島教授は、訪台は自ら取りやめたと述べたが、一連の動きと同時進行で慶應の黒田昌裕常任理事は、経済新人会の学生らへの説得に当たっていた。

小島教授のメール発信と同じ10月4日、学生らが黒田教授に呼ばれた。以降、会合は数回に渡ってもたれた。

黒田教授は学生の自由意思を阻害するつもりはないとしつつも、李氏訪日で起きうべき事柄に、学生はどう責任を取るのかと繰返し問うた。中国の清華大学副学長から、同大と慶應の学術交流が影響を受けると告げられたと語り、慶應が中台双方と長年蓄積してきた学術交流が一時であれ頓挫すれば、どう責任を取るのかと迫った。

それでも説得に応じない学生に、ならば李氏の講演は学外で催すようにと教授は言い渡した。この段階で、今度は外務省が、ビザを出さないと宣言した。大学が抑え込めないとみるや、外務省が前面に出てきたわけだ。

黒田教授は、三田祭は大学と学生の信頼のうえに成り立つもので、自由には責任の裏付けが必要として、述べた。
「大学の自治と独立は、注意深く守らないと守り切れない脆弱さを内包しています。だからこそ、政治に絡むかたちでの動きを恐れたのです」

正論である。正論ではあるが、講演の中止こそが、学問の自由の、政治への屈服である。悪名高い外務省チャイナスクールにも似て、私学の雄の慶應が、福澤翁の自主独立の心を忘れ去ったかと問うものだ。