2年前の2000年の夏、ある日数人の学生が私を訪ねてきた。慶應大学「経済新人会」の者で、台湾の李登輝前総統を「三田祭」の講演者として招請したいので、仲介を頼みたいとのことである。

学生たちの壮大な気宇に感心して、私は何とか役に立ちたいと思った。しかし、当時総統と国民党主席をやめたばかりの李氏について、一私人となったから念願の訪日が叶えられるとの観測が流れたとき時の河野外相は早々と予防線を張って、「影響力があるなら、必ずしも私人とはいえない」と述べているのであった。私は学生たちに李氏訪日をめぐるそれまでの複雑な経緯を説明し、可能性は小さいかもしれないが全力を尽くすことを約束した。

学生サークルからの招請を伝えたところ、李氏は非常に喜んだ。間もなく李氏から届いた学生たちへの直接の返信には鄭重な謝意が述べられていたが、諸般の事情により訪日はできないと書かれていた。

「李登輝訪日問題」というのは、世界の外交史上後世まで笑いの種となること請合いの珍無類の喜劇である。一人の日本大好きの台湾人を日本に来させないようにする、ただその事のために、日本の政官界のお歴々が何年にもわたっててんやわんやの大騒ぎを演じたという話だ。

最初は94年の広島アジア大会であった。アジアオリンピック評議会からの招待状を受けて当時現役の李総統が開会式への出席を表明したところ、中国が日本に猛烈な圧力をかけたため、同評議会が招待を取消すという醜態となった。

次は95年のAPEC大阪会議である。台湾は正式メンバーであるが、早くもその前年に村山首相と河野外相は李総統の訪日参加を勝手に否定し、さらに密かに人を台湾に送って訪日断念を働きかけた。

李総統は日本を困惑させるのは本意ではないと、大阪には代理を派遣した。

翌96年の新年早々、元防衛大学校校長の猪木正道氏は新任の橋本首相に対するアドバイスとして、言うに事欠いて「台湾の総統を日本に入れるな」と進言した(産経新聞1月15日付「正論」)。

97年は京都大学の百周年。李氏は母校の記念式典への参加希望を表明したが、京大は「李氏は中途退学だから」という最低のいじましい理由でこれを認めなかった。背後に政治圧力があったのは自明のことである。かつて戦前、政治圧力から一教授を護るため、教授ら39名が辞表を出した「滝川事件」は同大学の名声を大いに高めたものだが、それも今は昔。因みに李氏は戦時下の42年に台北高校から京大に進学、翌43年に学徒出陣、日本陸軍少尉として終戦を迎えている。なぜ彼が学業を続けられなかったのか、京大によく考えてもらいたい。

そして2000年、李氏はすでに公職を退いていたのに、前記の「私人とはいえない」との河野発言の結果、「三田祭」はもとより、秋に松本市で開かれたアジア・オープン・フォーラムへの参加も断念せざるを得なかった。

2001年、李氏は心臓病治療のため訪日ビザの申請を行ったが、槙田邦彦・外務省アジア大洋州局長はビザ申請などないと大嘘を吐いてまで訪日を阻止しようとした。幸い森首相の英断で李氏は倉敷市の専門医に診てもらうことはできたが、実兄が祭られている靖国を訪れることは叶わなかった。

しかしその直後、新任の田中真紀子外相は、就任するや否や即時北京に電話して、李登輝来日拒否の意思を”上奏”したのであった。

そして今年2002年の夏、2年前の不首尾に少しもめげることなく、「経済新人会」の若者たちは再度私を通して李氏を招き、今度は快諾を得た。この件で直接李氏と打ち合わせをしたが、いささかも気取ったり偉ぶったりすることなく、隣国の若者たちから講演を頼まれたことを心から喜んでいる李氏の様子を目の当りにして、台湾のこの前総統に対する私の敬愛の念は一層深まる思いだった。

しかし、李氏の来日計画が発表されるや、またもや妨害工作の気配が頻りである。日台のあいだで、年間約200万の人々が自由に往来しているこのご時勢である。自由民主の世界大国日本のおエライさん方が寄ってたかって、あの手この手を駆使して、今年80歳の台湾人一人をこれほどまで敬遠する様はまことに滑稽でみっともなく、シャレにもならない。お尋ねしたいが、李登輝さんが日本に何か悪いことをしたのでしょうか?(月刊自由民主「論壇」 2002年12月号より転載)