台湾日日新報に残された佐藤乾の記事。庄長も兼任していたようだ(記事では「公醫」と表記されている)

台湾には今でも尊敬されている日本人は八田與一をはじめ少なくない。

本日の「台湾セミナー」で山本厚秀・本会理事に話していただく「水道の恩人」瀧野平四郎もその一人だ。

「福島民報」が報じた会津出身の医師、佐藤乾(さとう・かん)もその一人のようだ。

今年6月、本会とともに李登輝元総統を沖縄に招聘した「一般社団法人日本台湾平和基金会」で副理事長をつとめる許光輝氏が佐藤乾のご遺族を探しているという。

お心当たりの方は、許氏(kyomitutere@hotmail.co.jp)まで連絡いただきたいという。


台湾の離島医療に尽力 会津人の軍医故佐藤乾さん

【福島民報:2018年11月6日】

明治時代から昭和時代初期にかけ、台湾の離島でへき地医療に尽力した会津人がいた。台湾の関係者の話や資料によると、会津若松市出身で軍医として島に渡った故佐藤乾(かん)さんで、1940(昭和15)年に亡くなるまで36年間にわたり医師として島民に寄り添い続けた。佐藤さんの功績をたたえるとともに感謝の気持ちを伝えようと、台湾出身の有志が日本に帰国した佐藤さんの遺族を探している。

台湾の澎湖(ほうこ)島出身で日本台湾平和基金会副理事長の許光輝さん(52)=沖縄県在住=や台湾に残る資料によると、佐藤さんが医療に従事したのは台湾本島の西にある澎湖諸島の一つ望安(ぼうあん)島。首都・台北からは飛行機とフェリーを乗り継ぎ3時間ほどかかる。

佐藤さんは1861(文久元)年生まれ。県内や東京の病院で内科、外科、歯科を学んだ。台湾の日本統治時代の1904(明治37)年に軍艦で望安島に渡り、周辺の島々を含め、約3万人の島民の診療に当たった。

佐藤さんは望安島に家族と共に移り住み、井戸を掘って飲み水を確保するなど住民同様の生活を送った。足腰が弱った晩年は人力車に乗り、手伝いの人に押されて集落を回ったとの逸話が残る。献身的に診療する姿に島民は心を打たれたという。猛烈な台風に襲われる島の自然環境は厳しく、佐藤さんの後任はいずれも短期間で島を離れたと伝わる。

島で亡くなった佐藤さんの墓は不明だが、島内の海が見える高台には妻カネさん、長男の墓がある。1926(大正15)年に30代で亡くなった長男の墓石には、島の公醫(公医)だった佐藤さんにちなみ、「福島縣士族公醫佐藤乾 長男晋行年三十八」の文字が刻まれている。

佐藤さんの孫守さんは第二次世界大戦後、日本に戻った。会津若松市や会津若松医師会に佐藤さんの足跡は残っておらず、守さんら遺族の所在は分かっていない。

許さんは「台湾でへき地医療に身をささげた佐藤先生の遺族に感謝の気持ちを伝えたい。遺族がいれば連絡してほしい」と話している。望安島内に顕彰碑の建設を求める住民の声もあり、許さんは「佐藤先生の功績を台湾と日本の友好の懸け橋にしたい」と夢を描く。

佐藤さんに関する情報提供・問い合わせは許さんメールアドレスkyomitutere@hotmail.co.jpへ。