歴史学者の張炎憲氏は2014年10月3日、訪問先のアメリカで心筋梗塞のため急逝された。まだ67歳だった。張炎憲氏には、2004年(平成16年)10月から始めた「日本李登輝学校台湾研修団」において、第1回目から毎回のように「李登輝先生と台湾の民主化」というテーマで講師をつとめていただいていた。

2・28事件研究の第一人者でもあり、台湾教授協会会長や台湾歴史学会会長などの要職を経て就いた國史館館長時代の2006年、他の研究者とともに3年の歳月をかけて『228事件の責任所在研究報告』を完成させ「二二八事件の責任者は蒋介石である」と明らかにされた。

その概要は、2007年12月に日本語と英語に翻訳され、日本語版としては『二二八事件 責任帰属研究報告(摘要)』として二二八基金会出版から出されている。

その中から、張炎憲氏が「責任明確化は社会正義実現への第一歩」と題して研究成果を報告する一文を下記にご紹介したい。


責任明確化は社会正義実現への第一歩

                                 張炎憲(國史館館長)

228事件は戦後の台湾史上で最も悲痛な事件であり、政治上最大のタブーである。長い間公然と討論はおろか、公の研究すらできなかったが、その影響は深く台湾史上に刻みこまれている。

一、曖昧にされた228事件の真相

1987年以来の228正義平和運動展開後、各界からの呼びかけと奔走により、事件の影は次第に消えていった。運動の主な要求には、史料の公開、記念碑の建立、記念館の設立、国定休日への指定、政府の公式謝罪及び事件被害者の傷害・損失への賠償等があり、政府が一つずつ譲歩して全て実現された。

しかしタブーが解かれていく過程で、かえって、事件を徹底的に解明しようとせず、うやむやのままにしておこうという雰囲気が生まれてしまった。政府は補償金を支払ったことで既に責任を果たしたと考え、世間の人々は災難に遭った者の家族が金銭を得て慰められ、事件は既に終わったと考えるようになった。表面的な記念儀式や金銭的補償の下、228事件の歴史的真相は逆に曖昧になり、忘れられようとしているのである。

二、228事件に対する真の反省の欠如

こうした現象が民主化後の台湾に出現するとは、本当に不思議なことである。権威主義体制の時代、国民党政府は人権を圧迫し、反対する者は逮捕し、無数の冤罪事件を生み、民衆は心に怒りを充満させつつも、敢えて不満または抵抗を口にし、態度に表すことはなかった。これは当時の時代環境を考えると理解出来る。

しかし、民主化を求める先輩たちが先人の屍を乗り越えて努力を続けた結果、台湾が終に民主化され、228事件のタブーが解除されたにも関わらず、自由な民主社会の中で、かえって事件の歴史的意義を正視することが難しくなったのだ。これは今もなお事件の歴史が真の意味で反省されておらず、事件の歴史的責任が未だ整理されていないことを示している。

民主化以後の台湾は、民主というまやかしの中で、寛容的和解と民族調和という空虚な大義名分の下、事件の歴史的真相と責任の所在という核心問題に触れようとしなかった。

三、「228事件の責任所在」研究の起因

行政院は228事件の記念基金会成立後、積極的に補償金を審査発給し、記念活動、慰問及び奨学金等の活動を行ったほか、更には、災難に遭った者の家族が長い間期待している責任所在の探究を、政府自ら負うべきだと考えた。

そのため当会は2003年末、228事件の歴史責任所在研究計画を開始した。当会理事である黄秀政、薛化元、陳儀深、張炎憲及び李筱峰、陳翠蓮、何義麟といった学者が共同執筆し、また、陳志龍教授、黄茂栄教授は228事件の刑事的、民事的責任を法律面から探求し、蔡宗珍教授はナチスのホロコーストを題材に対比研究を行った。

当会は2003年末に計画に着手した。2004年にはほぼ毎月の討論を行い、終に228事件の責任所在研究報告を完成させた。本書は第1章と結論の外、事件発生とそれが台湾に与えたダメージ、南京の政策決定階層の責任、台湾の軍政方面の責任、事件に関係した者の責任等、5つの部分に分けられている。

四、責任所在の明確な整理

今まで228事件に関しては多くの関連史料が見出され、台湾省文献委員会、中央研究院近史所、国史館といった機関がそれぞれ重要史料を出版している。しかし口述の歴史記録と論著が相当な成果を挙げているにも関わらず、歴史的責任の所在について体系的に論述した書籍は依然として存在しない。このため本書はこれらの問題に探求を加えるものである。

<事件発生と台湾が被った痛手>は事件発生の背景、過程、国民政府軍派遣による鎮圧とそれが台湾に与えた痛手を説明している。228事件発生の節目をそれぞれ深く掘り下げて分析し、責任所在につながる基礎的史実を探求する。

<南京政策決定階層の責任>では、蒋介石が最大の責任を負うべきだと結論づける。なぜなら蒋介石が最高指導者として位置付けられ、各方面の情報を掌握し、台湾事変の発展を理解していたためである。

尚且つ軍隊派遣を決定して台湾を鎮圧し、台湾民衆に膨大な死傷者をもたらした後も、陳儀と台湾の軍事政治指導者に対する懲戒は一つもなく、それどころか事後陳儀を浙江省主席へ、彭孟緝を台湾省の警備総司令官へ昇格させている。これは蒋介石が台湾の民意を軽視し、台湾人の政治改革要求を祖国への反逆暴動行為と見なしたことを示している。

また蒋介石が最大責任を負うべきとするほか、監察委員として台湾に調査へ来て、監察的機能を果たせなかった楊亮功、何漢文等を糾弾するものである。国防部長の白崇禧もまた、慰労に来台したものの、銃殺事件を阻止することが出来ず、最後まで陳儀の言葉に従い台湾人民の真意を反映することが出来なかった。

<台湾軍政階級の責任>では、南京政府の最高指導者である蒋介石が最大の責任を負うべきだと説明するほか、台湾の軍政指導者の責任について報告する。行政長官兼警備総司令官の陳儀は、台湾軍政階級においては最大の責任を負うべきであり、台湾警備総司令官参謀長の柯遠芬、高雄要塞司令官の彭孟緝らがそれに続く。憲兵第4団団長の張慕陶、基隆要塞司令官の史宏熹、21師師長の劉雨卿、及びその他情報治安人員も煽動と人民の逮捕、銃殺に責任を負う。

<事件の関連人員の責任>では「半山」分子、スパイ、陥穽者、密告者、メディア関係者、社会団体構成員の責任を探求していく。これらの者は直接指揮したり、決定した者ではないが、追従或いは服従者であり、部分的責任を負うべきである。

五、社会正義の追求

執政者が国家公権力を通じて民衆を集団殺戮する計画を有していたことに対して、事後にその真相と元凶とを追及するのは相当に困難である。特に228事件は国民党により史料が葬られ、故意に曲解して説明され、圧政下にあったため、真相を知るのは更に難しい。責任追及を進めようものなら、最高指導者の蒋介石の賢明なイメージを傷つけることにもなってしまう。

また国民党政権は戦後初期も台湾を実質的に統治しており、責任の追及は国民党政権の正当性に衝撃を与えるだけでなく、更には長期の国民党教育の価値観に背くものだ。しかし歴史はやはり歴史に帰すものであり、度重なる困難があっても、真相は依然として探求され、歴史責任も追及されるべきである。

第2次世界大戦後、ドイツ人はナチスのユダヤ人虐殺を自己批判し、責任追求と反省を行った。ドイツが自己反省出来たものを台湾はなぜ出来ないのだろうか。第2次世界大戦の終戦後既に60年がたったが、戦後多くの歴史問題は未だ真に直面され、反省されてはいない。228事件は台湾の最大の痛手であり、今なお台湾に影響を与え続けている。それに対して責任の所在を明確に整理し、社会正義を実現させてこそ、ようやく教訓を銘記し、怨恨や誤解を解消し、相互扶助や台湾への慈愛を生み出すことが可能になるのだ。