ちょうど20年前になる。当時、高千穂商科大学教授だった名越二荒之助(なごし・ふたらのすけ)氏と日華交流教育会専務理事で東方国際学院院長だった草開省三(くさびらき・しょうぞう)氏の編纂により、96編に及ぶ日本と台湾の心温まる交流の歴史に、260枚の関連写真を添えて『台湾と日本・交流秘話』(展転社、1996年4月刊)が出版された。

この96編の中に、神様として祀られた日本人として義愛公こと森川清治郎(もりかわ・せいじろう)巡査や飛虎将軍の杉浦茂峯(すぎうら・しげみね)海軍兵曹長も紹介している。

その他にも、芝山巌事件で犠牲となった六士先生や、蓬莱米の父と母と慕われている磯永吉(いそ・えいきち)と末永仁(すえなが・めぐむ)、最後の台南市長として敬愛されている羽鳥又男(はとり・またお)、大甲の聖人と言われる志賀哲太郎(しが・てつたろう)などの事績を紹介している。八田與一ももちろん取り上げられ、高砂義勇隊記念碑や潮音寺についても取り上げている。ほとんどの物語が日本で初めて紹介されたと言ってよい。

今朝の産経新聞「産経抄」は、昨日、杉浦命の神像の里帰りが実現し、水戸市の護国神社で慰霊祭が行われたことを伝え、台湾の富安宮に神として祀られている森川清治郎の事績と併せて紹介している(下記)。

杉浦命は水戸市の五軒尋常小学校、三の丸尋常高等小学校を卒業していることから、水戸市ではホームページに「『飛虎将軍』故杉浦茂峰氏について」というコーナーを開設し、生家である茨城県信用組合農林水産部ビルに飛虎将軍を紹介するパネルを設置したという。

『台湾と日本・交流秘話』を編纂し、本書で杉浦命の事績を紹介した名越二荒之助氏は2007年に亡くなっている。出版から20年という節目の年に、杉浦命の神像が里帰りし、水戸市が杉浦命を慰霊顕彰していることに、名越氏も泉下で嘉されていることだろう。

飛虎将軍廟は台南市内にあり、明日から頼清徳市長が来日する。台南市は仙台市との姉妹都市を2006年に結んで以来、5つの自治体と都市間提携を結んでいる。杉浦命を機縁に、水戸市と台南市の本格的交流がはじまることを期待したい。

ちなみに、杉浦茂峯命は靖國神社に祀られているご祭神。水戸市のホームページなどでは杉浦茂「峰」と表記しているが、靖國神社のご祭神票では杉浦茂「峯」と表記している。

◆「飛虎将軍」故杉浦茂峰氏について[水戸市ホームページ:9月21日]


台湾で神になった日本兵「飛虎将軍」 その気概は今も自衛隊のパイロットに受け継がれている

【産経新聞:2016年9月23日「産経抄」】

台湾では南部を中心にあちこちで、日本人が神として祭られているらしい。日本の統治下に入ってまもなく、嘉義県(かぎ)の村に赴任した森川清治郎巡査もその一人である。森川巡査は学校を造り、飢饉(ききん)の際は村人に食べ物を配った。役所が増税を決めると、軽減を訴えた。

▼そのため懲戒処分となった森川巡査は、自ら命を絶った。約20年後、村の周辺でコレラが流行する。「環境衛生に注意しなさい」。ある晩、村長の夢に出てきた森川巡査のお告げに従うと、混乱が収まった。村人たちは「義愛公」の尊称をつけ、ご神体を造るに至る。

▼先の大戦末期に台南市で戦死した杉浦茂峰(しげみね)少尉は、現地で「飛虎将軍」として、祭られている。杉浦少尉もまた今年春、廟(びょう)を訪れた日本人作家の夢枕に立った。「故郷の水戸に帰りたい」。このお告げが契機となって、杉浦少尉の神像の里帰りが実現する。昨日、水戸市の護国神社で慰霊祭が行われた。

▼零戦の搭乗員だった当時20歳の杉浦少尉は、来襲する米軍機を迎撃中に被弾した。脱出が遅れたのは、集落への墜落を避けようと、できるだけ遠ざかろうとしたためだ。空中爆発の直前にパラシュートで降下する途中、米軍機の機銃掃射を浴びた。地元の守り神となった所以(ゆえん)である。

▼平成11年11月、航空自衛隊の練習機が、埼玉県狭山市の入間川河川敷に墜落し、2人の自衛官が殉職する事故があった。原因は、エンジントラブルである。操縦していた2人は、住民の巻き添えを避けるために、危険回避のコースを最後まで取ろうとした。

▼墜落直前に脱出したときは、高度が足りず、パラシュートが十分開かなかった。「飛虎将軍」の気概は、今も自衛隊のパイロットに脈々と受け継がれている。