本文は『SAPIO』2016年8月号にも掲載

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こちらの「NEWS ポストセブン」に、今般ジャーナリストの野嶋剛氏が謝長廷・新駐日代表にインタビューした記事「台湾の新駐日代表『私の派遣は台日関係への重視の証明です』」が掲載されましたので下記にご紹介します。


台湾の新駐日代表「私の派遣は台日関係への重視の証明です」

近頃とみに日本と台湾の関係が深まっている。その台湾に誕生した蔡英文・新政権が、サプライズの人事を発表した。日本でいう首相にあたる行政院長の経験者で、2008年には民進党を代表して総統候補にもなった謝長廷氏(70)を、駐日代表に任命した。台湾の駐日代表としては過去最高ランクの人事で、その謝氏に日本赴任直前の台北で独占インタビューした(聞き手/野嶋剛氏)。

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2008年の総統選で新聞社の台北特派員だった私は、謝氏に密着し、しばしば台湾新幹線で待ち伏せして一緒に移動し、選挙の内情を教えてもらったものだ。あれから8年、コンタクトは続けてきたが、当時と比べて表情はだいぶ優しく、柔らかになった気がする。なかなか本音をつかませない日本のベテラン政治家にも通じる漫談のような話しぶりは相変わらずだった。

謝氏は日本語が達者だが、生まれたのは戦後の1947年。すでに日本は台湾を去っており、父親は漢方医で家庭では日本語を使わず、むしろ中華文化の影響が強い家庭で成長した。祖父の兄は謝尊五という漢詩の詩人だったという。

ただ、家庭などでは日本の歌や日本の小説に触れることも多かった。当時の国民党政権は、日本文化を規制していたが、家では日本の芸能雑誌の『明星』や『平凡』を読み、吉永小百合や石原裕次郎、小林旭などに憧れていたという。

本格的に日本語や日本文化に触れたのは大学に入ってから。第二外国語で日本語を選び、文部省の奨学金を得て京都大学で4年間法哲学を学んだ。ちょうど日本の学生運動の盛り上がりのころで、日本で経験・目撃した「法律」と「運動」は後に台湾で謝氏が民主運動に関わる出発点になったという。

「日本留学では日本の規律、勤勉、効率、遠慮などいろいろな概念を学びました。特に影響を受けたのはやはり法律。法律は政治のコントロールを受けない。統治者の道具ではない。法律は人民のために存在する。弱い者は法律があるから強い者にも勝てる可能性がある。そういう思想に影響され、台湾に戻ったあと、国民党の専制政治と闘う動機にもなりました」

留学時は、京都の名刹・南禅寺のそばのアパートに住み、日々、インスタントラーメンをすすったという。京都大学の加藤新平名誉教授や田中成明名誉教授らに師事し、東京大学の渡辺洋三名誉教授の影響も受け、帰国後、『法治的騙局』という本も台湾で出版している。加藤氏はいつも遅くまで研究室にこもって働いていたため、謝氏も先に帰りづらくて苦労したという。日本で尊敬する人は、恩師である加藤氏だと謝氏は語った。

帰国後は台湾政界で民進党の中核として活躍。台湾民主化の起点となった「美麗島」事件の弁護にかかわり、民進党結党メンバーの一人として党規約の起草の中心を担った。立法委員、高雄市長などを歴任し、陳水扁政経時代には首相にあたる行政院長も務めた。自らの派閥も持っており、台湾政界でも民進党の重鎮として影響力を持っており、蔡英文政権の誕生にも貢献した。その謝氏の派遣に蔡英文総統はどんなメッセージを込めたのか。

「私の派遣は台日関係への重視の証明です。蔡英文総統が私に伝えたことも、台日関係は非常に大切であり、安定すべきであるという考えで、私もまったく同感です。特に東日本大震災のあと、台日関係では特に民間の感情面で好ましい変化がありました。お互いの震災のたびに心を寄せ、支援を申し出ています。この流れを止めてはいけないと考えています」

この取材の直後に日本へ赴任し、同じ民進党の陳菊・高雄市長、頼清徳・台南市長の被災地の熊本訪問にあわせて、謝氏も荷物をほどく間もなく熊本に飛ぶことになっていた。取材前後にも慌ただしく党内で打ち合わせを重ね、訪日準備に忙殺されていた謝氏。日台関係の下りでは身を乗り出した。

「日本も台湾もお互いを大切なパートナーと位置づけています。私はさらにこの関係が『運命共同体』に近づくべきだと考えています。経済だけをみれば台湾は中国とも深い関係です。しかし、日本とは単なる経済的なパートナーではなく、もっと深い人と人の情のようなものがあります」

「震災の支援は『善意の循環』です。相手が困っているときに駆けつけたい、という気持ちからくるものです。1999年の台湾大地震、2011年の東日本大震災、今年は日本が台南の震災を助けてくれた姿に私も大変感動しました。日本と台湾の歴史的なつながりもあるでしょう。政治的な目的や名誉を動機とするものではなく、誰かがやれと命じたものではなく、自然に積み重なったもので、だからこそ大切です。この好ましい循環をさらに常態化させたいと思っています」

安倍・自民党政権は台湾に対して好意的な姿勢を見せている。駐日代表の役割の一つは、国会議員とのパイプを築き、台湾側の「本音」を伝え、日本側の「本音」を探るところにもある。台湾政界で巧みに生き残ってきた「業師」の印象が強い謝氏だが、日本の政治家とはどんな関係を築くのか。

「日華懇(日華議員懇談会。台湾との交流を目的とする超党派議連)の議員だけでも300人いるといいます。一人一人訪問するだけで一年かかりますね(笑)。自民党だけではなく、いろいろな政党の方々もいる。まずは参議院選もあります。ゆっくりコツコツ関係を作っていきたい。日本留学中は京都で勉強ばかりで、今度はぜひ地方にも足を運びたい。

そのなかで自治体交流の強化は私が重視するところです。高齢になった台湾の日本語世代が次第に第一線から退いていくなか、いかに次世代のために日台関係が安定するメカニズムを作るか。日本と台湾は外交関係こそありませんが、民間の交流はとても活発で、都市間の往来も頻繁です。しかし、単発なものになりがちです。市長が変わっても、政権交代があっても変わらない日台交流のメカニズムを育てることが私の重要な仕事の一つになります」

訪日直前、沖ノ鳥島の近海での台湾漁船拿捕をめぐり、馬英九前政権が強硬姿勢を取ったことが話題になった。その渦中に冷静な対応を呼びかけた謝氏の発言は台湾社会で国民党寄りメディアなどから集中砲火を浴びた。その真意を尋ねると、いささか厳しい表情を浮かべ、こう語った。

「政府が海巡署(海保)を派遣して漁民を守る。これは私も賛成です。しかし軍艦の派遣には賛成できない。台湾の世論も平和的解決を求めている。軍艦を出しても平和的な解決はできない。軍艦は一種の外交のカードだと言う人もいた。しかし、偶発的な衝突が起きたらどうするのか。政府は漁民を守り、トラブルは外交交渉で解決する。それが民進党政権の態度です。さらに言えば、沖ノ鳥の問題は主権ではなく、経済水域と公海の定義の問題であり、台湾の一部で言われた『国辱』などといった言葉は当てはまらない案件です」

馬英九政権下での良好な中台関係では、中国も日台関係に比較的余裕をもって対応してきたが、民進党政権の誕生で中台関係が冷却化し、中国が以前よりも厳しい態度を取ってくる可能性も一部では懸念されている。

「中国は間違いなく台日に注目するでしょう。しかし、民進党には日本と連携して中国と対抗する考え方はありません。この地域にはいろいろ複雑な問題があります。例えば、東シナ海の釣魚台(尖閣諸島)や南シナ海の問題などです。台湾はお互いを刺激せず、平和的な解決をじっくり求めていくスタンスです。東アジアの繁栄は戦後の長い平和がもたらしたもの。台湾は平和の『緩衝材』の役割を果たしていけばいい。私たちの政策はそこにあります」

5月20日の民進党政権復帰の日、蔡英文総統は、就任演説を行った。その内容に「一つの中国」原則を認める言及がなかったため、中国は台湾との対話の一部を中断し、台湾への観光客を段階的に減らしていくなど、制裁的な措置に踏み切りつつある。

「蔡英文総統の演説は、実際のところ、中国大陸に対して善意を示したものです。私の見方でも、過去の主張と比べても、表現方法を比較的改めてきている。中国大陸と台湾はともに少しずつ調整していけばいいです。蔡英文総統は中華民国憲法のもとで、過去の経緯も尊重しながら、民意を大切にしたい、ということを述べていたと思います。私たちは民主国家です。民意に反することはできません。世論調査で支持率は2割、3割になったらどんな政策も実行しにくくなる。過去に馬英九前総統時代に国民党は立法院で4分の3近くを握っており、いまの蔡英文総統よりも勢いがありました。でも、いまはどうでしょう? ですから我々は、慎重に、民意にのっとって一歩一歩進んでいくべきで、蔡英文総統はそのことをよく分かっていると思います」

民進党は8年の雌伏の末、政権復帰を果たした。今度は初めて立法院での過半数も獲得した。党創設のメンバーでもある謝氏はどんな気持ちか。

「2000年の時に民進党はチャンスをもらったが、反省すべき点が残りました。私たちは経験も浅く、国会でも少数でした。台湾には多くの異なる意見があります。今度は人民の声にしっかりと耳を傾け、慎重に執政をしないといけない。世界経済は厳しく道のりは困難ですが、台湾を新たな発展に導くことが民進党の仕事です」

【PROFILE】謝長廷/1946年、台北市に生まれる。台湾大学法学部で在学中に司法試験に合格し、京都大学に留学。帰国後弁護士となり、民主化運動の起点なった美麗島事件を担当し、政治に関わり始める。台北市議を経て、民進党創設メンバーの一人となった。立法委員、高雄市長、民進党主席などを経て、陳水扁政権の行政院長に就任。2008年には総統候補として出馬したが馬英九に敗北。党内では自分の派閥を抱え、隠然たる影響力を持つ。2012年には訪中するなど中国ともパイプがある。