芝山巌事件から120年を迎え、六士先生のご遺族9名をはじめ、遠く福岡、山口、大阪、愛知などからも駆けつけ、約70名が参列して本会主催による「六士先生・慰霊顕彰の集い」が6月26日に靖國神社で執り行われた。

11時半過ぎ、渡辺利夫・本会会長を代表として靖國神社の本殿において慰霊祭が行われた。靖國神社には2万7,864柱の台湾出身戦歿者も祀られているが、六士先生は芝山巌事件から2年後の明治31年秋の例大祭でご祭神として祀られている。

慰霊祭の祭主による祝詞奏上では、楫取道明、関口長太郎、桂金太郎、中島長吉、井原順之助、平井数馬のそれぞれの御霊のお名前が読み上げられ、続いて、柚原正敬・本会事務局長がその偉業をたたえて感謝の念を表す祭文を奉った。その後、渡辺会長による玉串奉奠に合わせ、一同うちそろって拝礼、厳かに慰霊祭を終えた。

その後、靖國会館に移動して講演会と清宴が行われた。

開会の挨拶は渡辺会長。筑波大学教授時代の教え子の招きにより今年3月に訪台したとき、篠原正巳先生の大著『芝山巌事件の真相』を含む本をいただき、訪台中や帰国便の中で読み終えたことを披露、芝山巌事件については知っているつもりだったが、初めてその全貌を知り、六士先生に改めて畏敬の念を抱いた旨を開会の挨拶として述べた。

続いて、司会の柚原事務局長から、和田政宗・参議院議員、松浦正人・防府市長、稲垣寿・西尾市小学校校長からのメッセージを披露。

続いて行われた、六士先生のお一人の楫取道明命の令孫でもある小田村四郎・本会名誉会長による講演では、祖父楫取道明の事績とともに、明治28年6月に船で台湾に渡る折に作った歌なども披露され「台湾の教育に一生を捧げようとした気持ちがよく現れている」と述べるとともに、六士先生の遭難が台湾の人々に感銘を与え、台湾教育の礎をつくり、台湾の人々の強い親日感情の源になっているのではないかと指摘された。

その後の清宴では、楫取道明命の孫の小田村四郎(おだむら・しろう)本会名誉会長をはじめ、参列された8名のご遺族が紹介された。

・九段高校同窓会「菊友会」理事長をつとめられる現在の楫取家当主で曾孫の楫取能彦(かとり・よしひこ)様。

・小田村四郎・本会名誉会長の兄の故小田村寅二郎氏(国民文化研究会創立者、亜細亜大学教授)ご長女で曾孫の公文静代(くもん・しずよ)様。

・桂金太郎命の弟の孫で、彫金の人間国宝(重要無形文化財の保持者)の東京都在住の桂盛仁(かつら・もりひと)様。

・井原順之助命の系列につながる、岩国市在住の会社経営者で郷土史家での上田良成(うえだ・よしなる)様。

・昨年2月に平井数馬先生顕彰会が熊本市内で開催した平井数馬先生顕彰祭でご講話いただいた平井命の兄の孫に当たる、福岡市在住の平井幸治(ひらい・ゆきはる)様。

・2009年に李登輝元総統が熊本にある平井命のお墓と顕彰碑を訪ねられた際に案内された平井命の兄の孫に当たる、福岡市在住の平井眞理子(ひらい・まりこ)様。

・平井眞理子様ご長女の子息で、玄孫に当たる上迫大志(うえさこ・たいし)様。

一言ずつお言葉をいただいたが、短いながらも、六士先生というそれぞれの祖先に胸深く尊敬と敬意を抱き、誇りに思っていることがよくよく伝わってきて、深い感銘が会場を満たしたようだ。

中島長吉命の血筋に連なる現在のご当主の中島力(なかじま・つとむ)様には、よんどころない用事のためご参列いただけなかったのが残念だ。

その後、湾生で最高裁判事をつとめられた園部逸夫氏による献杯の発声があり、園部氏は戦前から六士先生のお墓を参拝してきた思い出などを合わせて披露いただいた。

清宴ではご遺族を囲んでの話も弾んだようで、心温まる光景がそこかしこに見られた。この清宴の途中で平井命のご遺族がもうお一人参加されていることが判明、司会から急遽、平井金吾様ご夫妻を紹介する場面もあった。

平井金吾様は平井幸治様や平井眞理子様とはいとこ同士に当たり、台湾に長く住んでいて、現在は英語と中国語の翻訳や通訳の会社を経営されているとのことだった。

清宴もいよいよ終わりに近づき、参列していたノンフィクション作家の門田隆将氏に、今秋、日台同時発売を予定している、228事件で犠牲となった台南の弁護士の湯徳章氏(日本名:坂井徳章)を描く『汝、ふたつの祖国に殉ず』について話していただいた。また、愛知県西尾市で5年前から関口長太郎命の慰霊祭を行っている杉田謙一氏にも、その様子を話していただいた。

最後に、本会の林建良・常務理事が、台湾に残る「日本精神」の原点が芝山巌にあり、台湾人は台湾を知れば知るほど日本を知ることになるなどと力強く閉会の挨拶を述べ、盛会裡に六士先生・慰霊顕彰の集いを終えた。

今回の開催においては、熊本で平井数馬命の慰霊祭を行っている「平井数馬先生顕彰会」の白濱裕氏をはじめ、公益社団法人国民文化研究会など多くの方にお世話になりました。この場をお借りして御礼申し上げます。


六士先生・慰霊顕彰の集い 祭文

明治28年に日本が日清戦争に勝利し、4月17日に締結された日清講和条約によって清国から台湾を割譲され、日本の台湾統治と同時に、台湾の近代教育も始まりました。

東京師範学校校長をつとめ、音楽教育の先駆者でもあった伊澤修二は、日本全国から優秀な志ある教師を募集し、講和条約締結から2カ月後の6月14日、文部省学務部長心得として樺山資紀・総督や水野遵・民政局長とともに台北に着任しています。

伊澤の教化方針は、台湾人は人種的に日本人に近く、知徳量や推理力、観察力などにも優れ、日本人に気風が似ているなどの観点に鑑み、徐々に同化してゆく混和主義で臨んだと言われています。

6月17日の総督府始政式の翌日には大稲?で学務部事務を開始し、26日に台北郊外の士林に芝山巌学堂という最初の学校を開きました。早くも7月16日には学堂において7人の台湾人伝習生に国語の伝習を開始しました。まさに台湾で近代教育が始まったのがこの日であり、教師たちは身魂をなげうって台湾人子弟の教育に当たっていました。3ヶ月後の10月17日には甲組六名に修業証書を授与し、初めての卒業生を出しています。

しかし、統治間もない台湾はまだ政情不安の最中にあり、日本人を敵視する匪賊も少なくなく、周辺住民は再三退避を勧めたものの、教師たちは「身に寸鉄を帯びずして群中に入らねば、教育の仕事はできない。もし我々が国難に殉ずることがあれば、台湾子弟に日本国民としての精神を具体的に宣示できる」と、死を覚悟して学堂を離れませんでした。

翌明治29年1月1日、台湾総督府における新年拝賀式に出席するため、6人の教師が芝山巌を下山しようとしたとき、100人ほどの匪賊に取り囲まれてしまいました。教師たちは教育者として諄々と道理を説きますが、匪賊は槍などで襲いかかり、衆寡敵せず全員が惨殺されてしまいました。この非命に斃れた6人の教師は、楫取道明、関口長太郎、桂金太郎、中島長吉、井原順之助、平井数馬であり、後に「六士先生」と尊称され、明治31年秋の例大祭のときに靖國神社に合祀されています。

伊澤は、日本帰国中に起こったこの芝山巌事件の悲報を聞いてただちに台湾に戻りました。半年後の7月1日には遺灰を芝山巌に合葬し、来台していた伊藤博文総理に揮毫を依頼して「学務官僚遭難之碑」を建て、六士先生の遺徳を偲ぶ慰霊祭を催しました。昭和5年には芝山巌神社も建立されています。

台湾における入学児童の就学率は、統治初期の明治32年には2・04パーセントだったにもかかわらず、統治終了を翌年に控えた昭和19年には92・5パーセントにまで伸びました。台湾の人々は今でも芝山巌を「台湾教育の聖地」とし、教師としての使命を自覚して教えの道に徹し、名利や見返りを求めぬこの無私の精神を「芝山巌精神」として讃えています。

近年になって日本でも、関係者のご尽力により、愛知県西尾市では関口長太郎命の慰霊祭が行われ、熊本市でも平井数馬先生顕彰会が発足して平井数馬命の慰霊祭が行われるようになっています。

今年は芝山巌事件から120年の節目の年に当たります。顧みますれば、現在の日本と台湾の深い絆の淵源は、ここ靖国神社ご祭神の六士先生が一死を以て遺された芝山巌精神にあることに思い至ります。我ら一同、ここに深甚なる感謝の誠を捧げるとともに、そのご恩に報いるため、偉業を語り継ぎ、日台共栄に尽力することをお誓い申し上げます。

 平成28年6月26日

                          日本李登輝友の会 事務局長 柚原 正敬
                                       参列者一同

*掲載に当たっては、漢数字を算用数字に改めています。