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「竹子湖蓬莱米原種田故事館」に展示された平沢亀一郎の展示(河北新報社の報道より)

日本時代、台湾で内地種米の改良に一生を捧げ、稲作の発展に大きく貢献した磯永吉と末永仁は現在でも「蓬莱米の父と母」と呼ばれている。

また、台湾に貢献した日本人の銅像製作を続けている許文龍氏も、両氏の銅像を製作して台湾大学などに寄贈している。

磯や末永にスポットライトが当たる一方、日本時代の稲作発展を影で支えた仙台出身の功労者、平沢亀一郎氏を顕彰しようという動きが日台双方で進められている。

台湾では、今月行われる記念イベントに子孫が招かれるという。日本時代の農業発展史において、平沼氏の名前はあまり聞かれないが、磯と末永の奮闘を描いた『日本人、台湾を拓く』(まどか出版)にもその名前が登場する。

「1913年(大正2年)、台北郊外に聳える大屯山の台地から竹子湖を見下ろす磯らの姿があった。この年、総督府内部では「台湾登山会」が結成され、初めての活動を大屯山や七星山近郊で行ったのだ。メンバーだった磯も参加したのだが、その途中に見つけた盆地にピンと来るものがあった磯は、登山会幹事の平沢亀一郎を呼んだ。台北庁農務主任を務めていた平澤には、なぜ磯が山林の向こう側に見える盆地を指さしたかを即座に理解出来たのである。

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許文龍氏が銅像を製作した日本人の足跡をたどる一冊

火山の爆発で湖がせき止められたことで生まれた盆地は「竹子湖」と呼ばれ、海抜600メートルあまり。低湿度ながら雨量は豊富、地質は肥沃、九州地方と酷似した環境に加え、自然の山に遮られたこの場所は、在来種との自然交雑や病虫害を防ぐため、内地米の 実験田としては最適であった」

そして、数年後には台北州農会に転籍していた平沢亀一郎技手による本格調査が行われ、気候・地質・水量の豊富さ・環境など、内地米の原種田を設置するには最適との判断が下され、台北州庁によって竹子湖に「原種田事務所」が設置された、と記述され、平沢氏が中心となって設置した竹子湖蓬莱米原種田事務所や農業倉庫が、蓬莱米の研究を大きく前進させ、台湾の稲作に大きく発展したことが記されている。

下記に平沢の顕彰が日台で進んでいることを報じる河北新報社の記事をご紹介するとともに、2015年12月23日に竹子湖に開館した「竹子湖蓬莱米原種田故事館」についてもご紹介したい。


<平沢亀一郎> 台湾稲作への貢献顕彰し記念館

【河北新報:2016年2月29日】

日本統治時代の台湾で、稲作発展の礎を築いた仙台市出身の若き農業技術者がいた。かつて台湾総督府に勤務し、宮城県海外協会(現県国際化協会)の常務理事を歴任した平沢亀一郎氏(1890~1986年)らの功績を顕彰する記念館が、現地に開設された。3月の記念行事に仙台在住の子孫が赴き、コメが結ぶ日台の縁をあらためて紡ぐ。

平沢氏は東北帝国大学農学科を卒業後、1918年台湾総督府に就職。農務主任として台北市北部の山あいに試験農場を設置し、現地の風土に適応する食味の良いコメ品種の開発や種子増産などに取り組んだ。

台湾の在来種は長粒のインディカ米で、味も収量も芳しくなかった。日本から種もみを持ち込んで栽培や交配を繰り返し、後に「蓬莱(ほうらい)米」と命名される品種を生み出した。

収量の安定、日本輸出による取引価格の上昇などで農家所得が向上し、全土に栽培が普及。試験農場の周辺に学校を整備するなど教育振興にも当たった。現在も台湾産米の9割が蓬莱米に由来する品種という。

先人の功績と日台交流の歴史を後世に伝えようと台湾政府は、平沢氏が中心となって設置した竹子湖蓬莱米原種田事務所と農業倉庫を改修し、昨年12月に記念館を開設した。平沢氏の取り組みを紹介するパネルなどを展示している。

事務所の完成から88周年となる3月8日、現地で記念イベントを企画。宮城県が間を取り持つ形で、平沢氏の孫に当たる佐藤田鶴子さん(68)=仙台市青葉区=と夫の重邦さん(73)が招待を受けた。蓬莱米育成の歩みなどをテーマにした講演や演奏会のほか、平沢氏をしのぶ場を設け、佐藤さん夫妻と現地の関係者が交流を深めるという。

佐藤さんは「祖父は生前、昔の仕事のことを多く語らなかったが、台湾の人々や自然に対する深い愛着をずっと持ち続けていた。100年前の足跡をかみしめながら、感謝の気持ちを伝えたい」と話す。


12月23日、陽明山国家公園に「竹子湖蓬莱米原種田故事館」が開館

2015年12月23日午前「竹子湖蓬莱米原種田故事館」の開館式典が盛大に行われました。陽明山国家公園の新しい観光スポットになることが期待されています。

陽明山国家公園中腹に位置する竹子湖には、1923年に内地種米を栽培する原種田が設置され、そこで生産され台湾全土に耕作が広がった品種が、後の1926年に「蓬莱米」と命名されたのです。

1928年に落成した「台北州七星郡竹子湖蓬莱米原種田事務所」と倉庫などの関連施設は、原種田の耕作管理、種籾の管理、種籾を台湾全土に発送するなどの業務を担いました。これらの建築物は戦後、二度の増改築が行われ、「梅荷研習中心」の名称で国防部憲兵司令部幹部教育・軍事演習施設となっていました。

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羅福全・元駐日代表は磯や末永の功績を語った

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式典はテープカットではなく稲穂を捧げる方式で(2枚とも陽明山国家公園のHPより)

2009年、台北市政府文化局は蓬莱米原種田事務所を、台湾における稲作発展の歴史を証明する重要な建築物であると認定。その後、陽明山国家公園管理処と国防部による協議の結果、土地不動産の転記を経て「竹子湖蓬莱米原種田故事館」の建設計画が進められました。故事館の展示は二つのテーマに分けられ、「竹子湖の昔と今」と題した地方発展史、「蓬莱米の故郷」と題した「竹子湖蓬莱米原種田の稲作史」を学ぶことができます。

12月23日に行われた開館式典では、謝兆樞・台湾大学農芸学部教授によって、蓬莱米のベースとなった品種「中村」の種籾を復元する作業が日本国立遺伝学研究所との協力で進められたことが報告されました。現在、台湾にはすでに「中村」は存在しておらず、日本国立遺伝学研究所から台湾大学磯永吉学会に寄贈された10粒の「中村」種籾も、冷蔵庫の中で30年以上眠り続けていたため、純粋の「中村」の復元は不可能とされていました。

しかし、「中村」が台湾の稲作発展に大きく貢献したことを鑑み、再度、国立遺伝学研究所が「中村」の種籾50粒を台湾に寄贈。2014年2月、ついに30数年の眠りから目を覚ました「中村」3株の幼苗が芽吹いたのです。全滅した当初の種籾を合わせても、実際に発芽に成功した率はわずか5.76%(日本側の理論的な発芽率は30%)だったとのこと。台湾の研究者の情熱と努力によって、「中村」の復元が実現したといえるでしょう。

また、当日は奇美集団創設者の許文龍氏から、許氏自身が手がけた「蓬莱米の父 磯永吉」と「蓬莱米の母 末永仁」の胸像が贈与されました。その際には、羅福全・元駐日代表から両氏の功績についてのレクチャーが行われ、式典は盛況のうちに幕を下ろしました。

今後、「竹子湖蓬莱米原種田故事館」が陽明山の観光スポットとしてこの地の歴史を伝えていくことが期待されています。

【本会台北事務所で翻訳、まとめたものです】