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蘋果日報の報道より

台湾の報道によれば、台南市北区にある日本時代の家屋の床下から、日本軍人と思われる像の頭部が発見された。

頭部が発見された家屋は、日本時代の歩兵第二連隊官舍のうちの一つ。現在は台南市の文化局が劇団や小規模オフィスに貸し出すことで、当時の面影を保存しつつ芸術エリアとして利用されている。

発見者によれば、日本家屋を使用契約した際、屋内や庭の点検はしたものの、床下までは検査していなかった。ある日、野良猫が破れた部分から床下に入り込んだのを見て、出られなくなっては可哀想だと思い、懐中電灯で床下を照らしたところ、像の頭部を発見したという。

発見者が友人とともに引き出した頭部は重さ約20キロ、首のところで切断されており、軍帽などから帝国陸軍中将ではないかと推察された。

20151218-03しかし、この像が誰なのか資料をあたっても判明しなかったため、発見者が写真をFacebook上に掲載したところ、日本時代の台南市大正公園にあった児玉源太郎・第4代総督のものであろうとされた。

日本時代の文献によれば、台南市大正公園にあった児玉像は大理石を用い、イタリア人職人によって制作されたものだという。

この頭部が児玉像の一部だと推察される根拠として、像が大理石で作られていること、その軍帽から帝国陸軍中将の軍服姿だっただろうと思われること、彫刻に西洋技術の技巧が伺えることなどが挙げられるという。

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日本時代の絵葉書に掲載された台南市大正公園の児玉源太郎像

また、本会台北事務所が台湾大学図書館や国家図書館の電子資料庫で検索した台南市大正公園の児玉源太郎像の画像からは、おぼろげながら今回発見された頭部と似通った風貌が見受けられる。

ただし、大正公園にあった児玉像は銅像で、青銅が酸化したことで石像のように見えたため、石像と誤解されていたと記載する文献もあり、専門家による調査が待たれるところだ。

インタビューに答えた台南市文化資産保護協会理事長は「なぜ像の頭部だけが切断されて床下に隠されていたのか理由は不明だが、70年もの間、誰の目にも触れなかった頭部が、偶然にも一匹の野良猫によって発見されたのだろう」と話している。

また、別の研究者は、この児玉像は戦後の1946年初めに引き倒されたが、当時の台南高等工業学校(現在の国立成功大学)にはまだ日本内地へ帰国していない日本人教師が残っていたため、日本家屋に居住していた教師の誰かが、児玉像が引き倒されたのを忍びなく思って頭部だけを持ち帰り、床下に隠したものが70年の歳月を経て日の目を見たのではないかと推測している。

像の頭部が発見された付近は、日本時代の1906年(明治39年)、当時の台南庁が火災や緊急時の対応のため、区画整理を行って整備した一帯。公園そばにはロータリーが設けられ、その中心に児玉像が置かれた。

また、付近には台南州庁(現在の台湾文学館)、警察署(現在の台南市美術館)、林百貨店などがあり、当時から現在まで、台南市中心部を代表する景観となっている。

児玉源太郎の像は1907年(明治40年)に落成し、当時の市民からは「石像」と呼ばれて親しまれたという。戦後、大正公園は「民生緑園」と改称され、像の周囲などは再利用され孫文の像が据えられた。その後、1997年に就任した民進党籍の張燦鍙市長(前李登輝民主協会理事長)が、228事件で受難した弁護士、湯徳章氏の名前を冠した「湯徳章紀念公園」へ改称し、今に至っている。

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【台湾での報道を本会台北事務所でまとめたものです】