『群馬学とは』を著した群馬県立歴史博物館学芸員の手島仁氏は今年の1月3日から、東京新聞の群馬版に「手島仁の『群馬学』講座」を連載しています。

『群馬学とは』の紹介で記したように、群馬県は台湾と縁が深い。最後の日本人台南市長を務め、台南の文化遺産を守り抜いて台南の人々から尊敬される羽鳥又男(はとり・またお)、「台湾紅茶の父」と慕われる新井耕吉郎(あらい・こうきちろう)、台湾の風土病撲滅に多大な功績を残し台湾ツツガムシ病を発見した医学博士の羽鳥重郎、台湾いろはかるたをつくった須田清基、基隆に台湾最初の「基隆夜学校」や私立図書館「石坂文庫」を創設して「基隆の聖人」とか「台湾図書館の父」と呼ばれる石坂荘作などがいます。

この「手島仁の『群馬学』講座」の5回目(1月31日)で台湾関係者として羽鳥又男が初登場しました。インターネットでは掲載されていないため、ここにその全文を紹介したい。手島氏のプロフィールは編集部で付け加えています。


手島仁の「群馬学」講座(5) 日本人最後の台南市長・羽鳥又男─上州人の「義理」台湾で貫く

平成の合併で前橋市となった富士見村石井、珊瑚(さんご)寺という天台宗の名刹(めいさつ)がある。平成19(2007)年4月25日、羽鳥又男の胸像が建立された。

又男はクリスチャンであった。これは、昭和36(1961)年に生誕百年を記念して頼政神社(高崎市)に建てられた内村鑑三の漢詩「上州人」の碑と対をなすもので、クリスチャンの碑が神社にあるのも、胸像が寺院にあるのも、世界中で群馬県だけであろう。

いずれも、理屈を言わず、義理人情を重んじる上州人気質から生まれた、寛容な宗教観によって実現したものである。

羽鳥又男の名は日本では無名に近いが、台南市では、生誕百年に当たる平成4(1992)年、台湾の大手日刊紙「中国時報」が特集記事を掲載。生誕百十年の同14(2002)年には、台湾の実業家・許文龍氏が胸像を作り、又男ゆかりの赤嵌楼(せっかんろう)に安置し、日本へも寄贈した。どうして、台南には又男に対する敬慕の念が息づいているのであろうか。

羽鳥又男は明治25(1982)年、勢多郡富士見村石井に生まれた。代用教員時代に共愛女学校長・青柳新米の講演を聴きキリスト教に関心を持ち、大正5(1916)年に台湾に渡り洗礼を受けた。台湾総督府中央研究所の職員となり、勤勉さが認められ、昭和17(1942)年4月に台南市長に抜擢(ばってき)された。50歳だった。

敗戦までの三年間、又男市長は次のような善政を行った。
1)孔子廟(びょう)に置かれていた神棚を撤去し、市民が同廟の老朽化に心を痛めていることを知ると、修復し伝統的祭礼を復活させた。
2)台湾の歴史を象徴する赤嵌楼のなかの文昌閣が倒壊しそうなのを見て、建物修復を行った。戦時中で台湾総督府の許可が下りなかったが説得した。
3)戦争のため供出された開元寺の釣り鐘が、台湾最古のものと知ると寺への返却を命じた。

「中国時報」によれば、「義を重んじ恩に感じるのが台南人の特筆である」という。わが上州も「義理人情」の風土で、珊瑚寺の濱田堯勝住職や檀家(だんか)世話人会が、クリスチャンの胸像を受け容(い)れてくれたのも、又男は郷土の偉人であり、台南市長として開元寺の古鐘を守ってくれた仏教の恩人であると、台湾からの善意に応えた結果であった。

2月2日(水曜)にBS-TBS「ゆらり散歩 世界の街角~台南・古都に残る日本の面影」(午後8時~8時54分)で、羽鳥又男をはじめ、台南で活躍した日本人が紹介される。(東京新聞:群馬版 2011年1月31日)

手島仁氏プロフィール
[てしま・ひとし]前橋市生まれ。前橋高校を経て立命館大学文学部卒業後、群馬県内の中央高校、群馬県史編纂室、桐生西高校、吉井高校に勤務。その後、群馬県立群馬歴史博物館に専門員と勤務し現在に至る。主な著書に『総選挙でみる群馬の近代史』『中島知久平と国政研究会』(上・下)など。論文多数。