「壮烈きわまる鄭南榕の自決」 宗像隆幸

『台湾建国』(まどか出版、2008年2月28日刊)より

台湾の人々の自由を封じ込めている何重もの重い扉を一枚一枚こじ開けるようにして開いている男がいた。鄭南榕である。一九八四年三月に週刊『自由時代』を創刊した鄭南榕は、投獄されたり江南のように暗殺されることを恐れてタブーとされていた独裁者一族の内幕や特務機関の暗躍などを暴露した。彼が死ぬまでの五年間に、『自由時代』は一年間の発行停止処分を受けること二十七回、その号限りの発行禁止処分を受けること十六回、それでも休むことなく『自由時代』誌は発行された。停刊処分に備えて彼は、『郷土時代』、『創造時代』、『台湾時代』など「時代」のついた誌名をたくさん登録していたのである。だから絶えず誌名は変わったが、発行所の自由時代出版社の名から、すべて『自由時代』と呼ばれていた。発禁になった『自由時代』でも書店でほしいと言えば買えたのは、没収されぬよう隠しておいたものを書店に配本したからである。

鄭南榕は創造力が豊かでさまざまなアイデアを生み出し、それを組織活動化する行動力の人でもあった。一九八六年の「五一九緑色行動」は、民進党の結成準備に加わっていた鄭南榕の発案であった。そのために彼は六月二日から翌一九八七年の一月二十四日まで八ヵ月間投獄され、その間に民進党は結成された。

出獄するや鄭南榕は、二・二八事件の四十周年を前にして、二月二十八日を平和記念日とする「二二八和平日」運動を起こした。鄭南榕の母は台湾人だったが、父は日本統治時代の台湾へ中国からきた人で本籍は中国であった。中国の正統政権と称する国民党政権は、台湾を中国の一省と見なし、父親の本籍が台湾なら「本省人」、中国なら「外省人」としていた。二・二八事件で「外省人」が「本省人」を殺戮したことから、両者の間に根深いしこりが出来たので、台湾に自由で民主的な国家を建設するためには、どうしてもこのしこりを解消しなければならないと考えて、鄭南榕は「二二八和平日」運動を起こしたのである。

一九八七年四月十八日、鄭南榕は公開演説会で「台湾は独立すべきだ」と主張した。長老教会が人権宣言で「台湾を一つの新しい独立した国家にすべきだ」と提言したことはあるが、公開の場で個人として台湾独立を主張したのは、これが初めてであった。台湾独立を主張しただけで叛乱罪に該当するとされていたために、それまで誰も公開の場では台湾独立を口にしなかったのである。しかし、鄭南榕によってこのタブーが破られると、その後は至るところで公然と台湾独立が主張されるようになった。

国民党も手をこまねいていたわけではない。たとえば、同年八月末に元政治犯が集まって台湾政治受難者聯誼会を結成し、その規約に「台湾は独立すべきである」という一項を盛り込んだ。そのときの議長と、この項目の提案者が十月に叛乱罪容疑で逮捕されると、台湾各地で「台独無罪」と「言論の自由」をスローガンにデモや集会が行われ、十一月には民進党が党大会で「人民には台湾独立を主張する自由がある」という決議を採択した。翌年一月に台湾高等法院(高裁)は、逮捕した二人に懲役十一年と十年の判決を下した。すでに戒厳令は解除されていたから軍事法廷は使えないが、国民党が検察も裁判所も支配しているのだから、どんな判決でも下せる。しかし、この判決で二人の無罪釈放を要求する大衆運動が、長期にわたって続けられることになったのである。

一九八八年七月、訪日した鄭南榕は、独立聯盟日本本部の幹部と会食したほか、数人とは個々に話し合った。仲間の張良澤(当時、筑波大学助教授)が、鄭南榕が私に会いたがっていると言って、彼を家に案内して来てくれた。

この年の五月に台湾で、私の『台湾独立運動の思想と戦略――自由のための戦い』(中国語、注34)と題する本が発行されていた。これは私が『台湾青年』に発表した論文の中国語訳でアメリカの『台湾公論報』(独立聯盟米国本部が週二回発行)などに掲載されたものを集めて一冊の本にしたものである。鄭南榕が公然と台湾独立を主張してからわずか一年間で、このような本が台湾で出版できるようになっていたのだ。我々は張良澤の通訳で話し合ったが、鄭南榕がこの本を読んでくれていたので、たちまち意気投合した。彼が特に関心を示したのは、日本人の私がなぜ台湾独立運動を行なっているのか、ということであった。「外省人」でありながら台湾独立運動に身を投じた鄭南榕は稀有の存在だったので、外国人の私が独立運動に参加していることを興味深く感じたのであろう。「私は根っからの自由主義者だから、台湾独立運動は人間の自由のための戦いなので、許世楷に誘われたとき喜んで参加した」と簡単に言えば、そのような回答をした。

この年の十二月九日に発行された『自由時代』誌に、鄭南榕は許世楷が書いた「台湾共和国憲法草案」(註35)を掲載した。翌一九八九年一月二十日、高等検察庁は憲法草案の掲載は叛乱罪容疑に該当するとして、一月二十七日に出頭するよう、鄭南榕に召喚状を送った。すでに台湾独立の主張が台湾中にあふれていた時代に、検察庁がこの問題をこれほど重視したのは当時、許世楷が台湾独立建国聯盟(一九八七年に台湾独立聯盟を改称)の主席だったからかもしれない。一月二十六日、鄭南榕は、「今日から家に帰らない。自由時代社に寝泊まりする」と言って、籠城した。彼は編集長室に三つのガソリン罐を置き、それにライターを貼り付けた。警官が逮捕に来たら、自決する覚悟であった。鄭南榕が編集部員に話したことを自分で整理した遺書ともいうべき文章が、『自由時代』台湾建国烈士・鄭南榕記念特集号(一九八九年四月十六日刊)に掲載されている。彼はその中で、こう語っている。

問…なぜ、喚問に応じないのですか?

答…これは国民党が公権力を乱用して政治的反対者を迫害しているのであり、人民には抵抗する権利があることを、台湾人民に知ってもらう必要があると考えました。

問…もし、国民党が強制的にあなたを連行しようとしたら?

答…彼らは私を逮捕することはできません。彼らが逮捕できるのは、私の死体だけです。このことを彼らは知っていなくてはなりません。

問…台湾独立の主張は、二・二八事件と関係があると思いますか?

答…相当に密接な関係があります。海外で独立を主張している戦後の若い世代は、ほとんどが二・二八の血なまぐさい教訓の影響を受けています。彼らは台湾が独立してこそ、台湾人の人権や民主主義が初めて保障されることを明確に認識しています。

問…あなたは一九八七年四月十八日に公開演説で初めて台湾の独立を主張し、その後一貫して独立を標榜し、新憲法草案を雑誌に掲載しました。これらの行動の背景には、一貫した戦略があったのですか?

答…それ以前は誰も公開の席で台湾独立を主張できなかったので、まずそれを主張せねばなりませんでした。台湾独立の主張が一つの共通認識になったあと、スローガンを叫ぶだけでなく、具体的な憲法草案の出現となったわけです。

問…この島に住んでいる人々の間には(本省人と外省人の間に)、なかなか解消できない「しこり」があります。この問題をどのように解決しますか?

答…国民党の身分証の分類によれば、私は外省人ということになっていますが、私は一〇〇%台湾人です。私たちはぜひともこの「しこり」を解消しなければなりません。

問…台湾独立はかならずしも民主主義を保障しない、大事なのは民主主義であって、独立ではない、という意見もありますが?

答…台湾の独立が民主主義を保障するかどうかは、台湾がどのような形で独立するかにかかっています。私たちは公民投票によって独立を決定することを主張しています。

問…現在の心境は?

答…闘志は高く、心は平和です。

鄭南榕は七十一日間、自由時代社に籠城を続けた。その間に彼を訪ねた数多くの人々に、彼は決して逮捕されないと、自決の意志の固いことを語った。一九八九年四月七日午前九時五分、警官隊がビルを包囲して自由時代社に突入しようとしたとき、鄭南榕はガソリンを浴びて火を放ち、自決を遂げた。四十一歳であった。

五月十九日、台北市で鄭南榕の葬儀が行われた。参加者は四万人を超え、葬列は五、六キロも続いた。葬列が総統府に近づくと、総統府は鉄条網で囲まれ、その内側を警官隊が固めていた。葬儀参加者は総統府を見上げながら、繰り返し「台湾独立万歳!」を叫んだ。そのとき葬列の中にいた一人の若者が鉄条網に身を投げ、体から真っ赤な炎が燃え上がった。詹益樺である。彼はガソリンを詰めた袋を体に巻きつけており、それに火を放ったのだ。鄭南榕に殉じたのである。

もし李登輝総統に少し力があったら、鄭南榕の逮捕に警官隊を向かわせることはなかったであろう。鄭南榕と詹益樺の壮烈な死に、李総統の心痛はいかばかりかであったか察せられる。しかし、当時の彼はまったく無力なロボット総統に過ぎなかったのである。

鄭南榕と詹益樺の壮烈な自決は、敵にも味方にも計り知れない衝撃を与えた。抑圧者に対しては、自由のために戦っている人々の決意の固さを知らせた。自由を求めている人々には、「自由か死か」と命を賭けなければ、自由は勝ち取れないことを教えたのである。

『自由時代』台湾建国烈士・鄭南榕記念特集号には、鄭南榕の自決で大衝撃を受けた多くの人々が、感想を寄せている。

自由時代社の名で発表された「鄭南榕の死は彼の復活である」と題する文章は、「一人の鄭南榕が焼死しても、十人、百人、千人、万人の鄭南榕が復活する。邪悪な国民党よ、台湾四〇〇年史の復讐者が現れた! 鄭南榕の殉死は彼の復活である」と締め括られている。鄭南榕夫人の葉菊蘭さんは、のちに立法委員や閣僚を歴任、「私は鄭南榕思想の伝道者である」といって現在も大活躍しているが、鄭南榕が自決した翌日の記者会見で、「彼は外省人の子弟でありながら、台湾の独立と言論の自由のために、自ら生命を犠牲にした。彼は妻をかえりみず、娘をかえりみず、自分の肉体的苦痛も意に介しなかった。彼の動機は、ただ台湾のこの地をこの上もなく愛するためであった」と語った。

許世楷は「台湾人が鄭南榕兄、あなたの精神を継承すれば、いかなる独裁政権も、我々の熱愛するこの台湾に存在できません。自らの所信・主張――台湾独立を貫徹するために犠牲となったことは、価値のあることであります。……あなたの人生は燦然とし、幸福の至りであるといえましょう」と書いている。

次に紹介するのは、江鵬堅(民進党初代主席)の文章からの抜粋である。「『自由か、しからずんば死を!』と、あなたは国民党を見下し、全力をふるって縦横無尽に国民党を攻撃した。今ここに、あなたは最後の武器――生命を投じて自らの信念と理想に殉じ、死を以て人々を諫めた。いつか我々は、『なぜ日本は敗戦から立ち上がって、あんな経済大国になったのか』話し合ったことがあります。我々は『日本には武士道文化と桜花の哲学があり、日本人は如何に生き、如何に死ぬべきかを知っている。それに対して、我々台湾人は?』という結論に達したのです」。

私は『台湾青年』(一九八九年五月号)を「台湾建国烈士 鄭南榕記念特集号」とした。政治犯として投獄されることは名誉と考えられるようになった台湾で、彼はなぜ投獄を選ばず自決したのかと考えた私は、この号に「鄭南榕よ、あなたは神となった。彼は人類の救いの道を啓示したのである」と題する文章を発表した。その中に次のように書いている。「今回、私は初めて人は死んで神になることがあることを実感として知った。鄭南榕は神になった、と考える以外にないほど、彼の死の意味は重いと信じるからである。鄭南榕が放った雷霆(らいてい)は、一瞬の轟きで終わったのではない。大衆が立ち上がり、台湾独立を実現する日まで、その雷霆はますます高く、ますます強く響き渡るであろう。まさに、鄭南榕は台湾独立運動の守護神となったのである。鄭南榕の貴い犠牲によって、『外省人』までが台湾独立を支持するようになり、『本省人』と『外省人』が協力して独立台湾を建設するなら、台湾が救われるだけではない。そのとき鄭南榕の放った雷霆は、万雷をともない、台湾海峡を押し渡って、中国大陸を揺るがし、十一億の民を目覚めさせるに違いないからである。人類の四分の一を占める人々が救われないのでは、世界も救われない。それは、人類の救いの道でもあるのだ。やはり鄭南榕は神になったのである」。

これはずいぶん長い文章であるが、その中国語訳を台湾の新聞『台湾時報』(一九八九年五月十九日付)が一ページを割いて掲載してくれた。その数ヵ月後、日本に来た葉菊蘭さんが私に、「あの文章を読んだが、夫の自決の意味を最もよく説明しているように思う」と言ってくれた。

註34:宋重陽(宗像隆幸)著『台湾独立運動的思想與戦略-為自由而戦』(一九八八年五月、台湾・南冠出版社)
註35:日本語版の台湾共和国憲法草案は『台湾青年』(第三四〇号、一九八九年二月号発行)に掲載。


■著者 宗像隆幸(アジア安保フォーラム幹事、日本李登輝友の会理事)
■書名 『台湾建国-台湾人と共に歩いた四十七年』
■体裁 四六判、上製、本文328ページ
■定価 1,890円(税込み)
■発売 2008年2月28日