千葉県の南房総全域をカバーする地元紙に日刊紙の「房日新聞」(房州日日新聞社、千葉県館山市)がある。この新聞の1面に「展望台」という社説があり、11月18日、「周英明先生のこと」と題した追悼文が掲載されたのでご紹介したい。

社説なので筆者名は記されていないが、これは本会会員の古市一雄(こいち かずお)氏の筆になるもの。本文中にも出てくるが、古市氏は本会理事で台湾研究フォーラム事務局長をつとめる古市利雄氏のご尊父に当たる方だ。鴨川市国際交流協会事務局長時代の平成16年1月、『思い出のアフリカ日記-感じたままの青春』(千葉日報社刊)を出版されている。

周英明先生の死は惜しみて余りある。古市氏のご了解をいただいたのでここにその追悼文を掲載し、改めて哀悼の誠を捧げたい。

本会メールマガジン『日台共栄』編集長 柚原正敬


周英明先生のこと  古市一雄

東京理科大学で教鞭をとっており、台湾の民主化、我が国と台湾との交流発展にその生涯を捧げた周英明先生が亡くなったことが全国紙で報道されていた。周英明先生といってもご承知の方は少ないとは思うが、夫人は金美齢先生であり、静の周英明、動の金美齢先生夫婦での台湾独立に向けた活動は、国民党独裁政権との戦いの歴史でもあり、波乱に満ちた人生だった。

大学在学中であった筆者の息子は、金美齢、周英明先生の歴史観、日本の行方と日本精神、それに、李登輝氏の提唱した武士道精神に影響を受け、日本統治時代の台湾史を研究する契機となった。現在台湾に留学中であり、早速メールを送ったが、返信では「魂が抜けたような脱力感であり、涙が止まらない」とあった。

2004年7月、許世楷・台北駐日経済文化代表処(台湾大使にあたる)の就任パーティのときだった。台湾に留学するのであれば、いつでも推薦状を書きますから言ってください。日本の先人たちが基礎をつくった国ですから、もっともっと若い人たちが経済や観光だけでなく、国際政治の関係でも、仲よく交流発展すべきであり、その先兵として頑張ってくださいと声をかけられた。祖国の民主化運動に関わったとして、パスポートを剥奪され、祖国であっても帰国することは出来ず、家族、親戚、友人などとは離れ離れの生活が続き、台湾の土を踏んだのは40年ぶりと回顧していた。

館山市には台湾資本の半導体メーカーも進出しており、また、多くの台湾からの人々が地域で暮らしている現状から、台湾と我が国は近くて親密であるにもかかわらず、歴史の舞台では余り教えられていない。アジア史の中でも、我が国が唯一50年間、植民地として統治していたこと、これが現在の台湾近代化の礎となっているという事も抜け落ちている。

ちなみに、植民地政策といっても、欧米列強の搾取を主体とする植民地対策とは根本的に異なり、台湾の社会インフラは本土以上のスピードで整備され、今日の台湾の建設が加速されたということが定説である。

こうした政治、外交の世界とは別に、経済、観光の面では、人と物との交流は確実に拡大している。周英明先生も、このことは、感じておられ、日台が真のパートナーとしての両国の発展を夢見ていたはずであり、これの全てが叶わない中でのご逝去は無念さを感じるところであろう。先生の壮絶な一生は、平和ボケとなっている若者の生き方にも、参考になると思い、これがいじめ撲滅にも通じるものと思う。

11月18日付「房日新聞」 社説「展望台」