20030720-01開催日時 平成15年7月20日(祝) 15:00~

会場 ホテルメトロポリタン

講演者 内川永一朗 (財)新渡戸基金事務局長・元岩手日報論説委員長

内川永一朗氏略歴
元岩手日報論説委員長、(財)新渡戸基金事務局長。
昭和4年(1929年)、岩手県紫波町生まれ。同32年、慶応大学経済学部卒業。同59年(1984年)、岩手日報論説委員長時代、新渡戸稲造会の創設に参画して副会長。 (財)新渡戸基金設立を推進し、平成6年(1994年)に設立されると同時に事務局長に就任。同8年、岩手日報常務取締役を退任。同11年、台湾で開催の「後藤新平・新渡戸稲造事績国際シンポジウム」にパネリストとして参加し、「後藤新平の最大の功績は新渡戸稲造の育成」と題して発表。同13年、岩手台湾懇話会が発足、事務局長に就任。現在、岩手日報論説委員会顧問。主な著書に『永遠の青年 新渡戸稲造』『晩年の稲造』『余聞録「新渡戸稲造」』『デモクラシー』『原敬と新渡戸稲造』『岩手県農協変遷史』など多数。

本会では7月20日、公開講座「第1回台湾セミナー」を都内のホテル・メトロポリタンで開催した。「台湾を知ろう」「日台関係を考えよう」との主旨で開始した本セミナーの当面のテーマは「日台関史における功労者」。

第1回の今回取り上げたのは、台湾の近代製糖業の発展の土台を築き上げ、最近では李登輝前総統が著書『「武士道」解題』(小学館)で光をあてた新渡戸稲造である。

講師は、『永遠の青年 新渡戸稲造』や『晩年の稲造』など数多くの新渡戸関連著書がある新渡戸稲造研究の第一人者である(財)新渡戸基金会事務局長の内川永一朗氏。「新渡戸稲造と台湾」との演題で、およそ1時間にわたって語っていただいた。

当日、会場にはおよそ160名が集まり、熱心に耳を傾けていた。セミナー終了後には同ホテルで懇親会を催し約100名が参加。第1回目の同友の集まりとあって、会場は熱気にあふれた。

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新渡戸稲造を語るにあたり、まず「盛岡出身の新渡戸稲造」である。新渡戸の祖父傳(つとう)は盛岡藩の勘定奉行だったが、新渡戸が5歳の時に亡くなっている。新渡戸は廃藩置県の行われた明治5年、「これからは新しい時代だ。懸命に勉強して家名を上げなくてはならない」として上京し、遊学生活を送った。最初は築地の英語学校に入り、旧南部藩校、東京英語学校で学んだ。

当時、岩手県から出て行く若者のほとんどは政治志望だった。なぜなら明治維新の時、岩手は奥羽列藩同盟に属していたため、みな賊軍の汚名を雪ぎ、天下の権を握らなければならないという志があったからだ。新渡戸もその例に漏れず、また「新渡戸が行くなら」と後を追うように上京したのが原敬であり、それ以前に出ていたのが後藤新平だった。

政治家を志した新渡戸だが、札幌農学校が創設されると、そこへ進学している。実は明治9年、明治天皇が東方巡幸の途次、青森県三本木に切り開かれた美田を展望され、そこを開拓した新渡戸の祖父傳、父十次郎の功績を激賞され、「子孫もその志を継ぐよう」とのお言葉を残された。それもあって、新渡戸は農学を志すことになったのである。

明治14年に卒業した新渡戸は、農商務省の勤務を経て東京大学の選科生となり、入試の時に「農政学を専攻しながらなぜ英文学を学ぶのか」と聞かれた新渡戸は、「太平洋の橋になりたいからだ。外国語に習熟し、海外のよいところを日本に紹介し、日本の伝統的精神文化も海外に伝えたい」と答えている。

だが、当時の東大のレベルは思ったほど高くなかったため、1年ほどで退学し、アメリカに留学する。帰国後は札幌農学校の教壇に立つ。その後、ドイツに足掛け4年間留学し、その過程でメリー・エルキントン嬢と結婚する。帰国後の明治24年、札幌農学校の教授に就任し、農政学と植民論を担当して大奮闘したが、重い神経症に罹って療養生活に入った。そこでまとめられたのが『農業本論』などの著作である。

やがてアメリカにわたって療養するが、そこで世に問うたのが、英文の『武士道』だ。彼の生涯をみて思うのは、療養中にこれら歴史的名著を送り出したことである。大変な才能であったことを感じないではいられない。

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日本に戻った新渡戸は、教壇に戻ることを念願していたが、事態が急変した。明治28年、日本が日清戦争の結果、台湾を領有し、児玉総督時代になって後藤新平が民政長官に就任、新渡戸を台湾へ呼び寄せたのだ。後藤は台湾財政確立のため産業の振興を推進する決意の下、優秀な人材を思い切って登用したが、その中の一人が新渡戸だった。

後藤からの意表をつく長文の電報で納得した新渡戸は渡台を決めたが、もし後藤が民政長官に就かなければ台湾に行くことはなく、ここに人の出会いの妙を感じる。新渡戸は札幌時代、卒業後の志望として「開拓事業に従事したい」、次いで「米糖の開発を行いたい」と書いている。彼は札幌においてこの仕事をやろうと考えていたが、それを新天地である台湾で行おうという気持になったのではないかと見ている。
台湾への赴任は明治34年、『武士道』を出版した翌年だ。台湾に滞在したのは約3年と長くないが、しかしその後も京都帝大の法科大学専任教授を務める傍ら、台湾総督府には嘱託として籍を残しているから、台湾との関係は非常に長かったと言える。

新渡戸の台湾での最大の功績は、砂糖産業の振興の土台を築いたことだ。その土台の土台となった彼の糖業改良意見書は、今も専門家から非常に高く評価されている。着任早々、歴史に残る仕事をさっとやってのける才能は、いったいどこから来るのかと考えさせられる。こういった人物は、そうざらにはいない。

産業の土台が築かれて、砂糖消費税は台湾財政のおよそ10パーセントを占めるようになり、そして台湾は世界的な砂糖産地になったのだから、大変なことだ。台湾の人たちから「台湾は戦後の外貨不足で経済が貧窮した時代、砂糖産業がなければ外貨の獲得は非常に困難だった。新渡戸先生の指導に改めて感謝している」と聞かされたことがある。

花蓮に行くと「ニトベカズラ」という花がある。そこでその名付け親を探したが、わからなかった。奇美実業の許文龍氏に聞いたら、「子供のころにはその名はあった」という。おそらく新渡戸稲造への親しみから、住民が付けたものだろう。

この春、李登輝前総統が『「武士道」解題』を発行した。私も新渡戸の家系上の問題で校正のお手伝いをしたが、読んでいて、「これはこれは」と思った。日本の武士道に関する本で、これほどインパクトのある本はない。このインパクトは意味するものを考えたい。そのインパクトこそが日台関係で大事なのだ。

新渡戸稲造が明治39年に台南で書いた随想「武士道の山」が残されている。そこで彼は武士道を山に喩えているが、その山の最高のところに立つ男が、没後70年にして現れたと思っている。


新渡戸稲造略年譜

文久2年(1862)
9月1日、父十次郎、母勢喜の3男(男3人、女4人の末っ子)として岩手・盛岡に生まれる。祖父傳(つとう)は盛岡藩の勘定奉行として、十次郎とともに三本木原(青森県十和田市)開拓の功労者。

明治4年(1871)
8月、上京し築地外人英学校へ入学。

明治5年(1872)
本郷湯島天神下の共慣義塾に学ぶ。

明治6年(1873)
11月、東京外国語学校(開成学校外国語学校)へ入学し、翌年、官費生。

明治8年(1875)
9月、東京英語学校入学。

明治9年(1876)
7月12日、6月22日より東北・北海道ご巡幸の明治天皇が新渡戸家に行幸され、母勢喜ら拝謁。傳・十次郎父子の三本木開拓を嘉され金一封をご下賜(明治天皇、7月20日、横浜港にご安着)。 稲造、ご下賜金にて英語の聖書を購読。農学を志す。

明治10年(1877)
7月、大学予備門依願退校。9月、札幌農学校第2期生として入学。

明治11年(1878)
6月、メソジスト派の宣教師により施洗。クリスチャンネームはパウロ。

明治14年(1881)
7月、札幌農学校を卒業。開拓史御用係勧業課へ勤務。

明治15年(1882)
3月、開拓史の廃止により農商務省御用係となる。11月、農商務省勤務のまま札幌農学校予科教授。

明治16年(1883)
5月、上京して成立学舎の英語講師となる。9月、農商務省御用係を退職し、東京大学選科生となる。入試の試験官に英文学を志す理由を「太平洋の橋になりたいから」と返答。

明治17年(1884)
8月、東京大学を退校。9月、渡米してペンシルバニア州のアレゲニー大学に入学するも、10月、メリーランド州のジョンズ・ホプキンズ大学に転学。米・28代大統領ウィルソン、哲学者ジャン・デューイと同学となる。

明治20年(1887)
3月、札幌農学校助教授に任命、ドイツ留学を命ぜられ、ボン大学やベルリン大学などで農業経済学や農政学を研究。

明治24年(1891)
1月、アメリカ・フィラデルフィアでメリー・エルキントンと結婚。3月、札幌農学校教授に就任、農政学や殖民論を担当。

明治28年(1895) 札幌農学校が文部省の直轄となり、教頭と舎監を兼任。

明治31年(1898)
重症の神経症になるも療養先の群馬県伊香保にて『農業本論』と『農業発達史』を執筆、出版。

明治32年(1899)
3月、札幌農学校の先輩、佐藤昌介らとともに日本初の農学博士。7月、農商務大臣や後藤新平らから台湾総督府勤務を要請。

明治33年(1900)
1月、フィラデルフィアの出版社から『武士道-日本の心』を出版。10月、英文『武士道』を日本で出版。

明治34年(1901)
2月、破格の高給で台湾総督府技師に就任。4月29日、昭和天皇、ご誕辰。5月、台湾総督府殖産課長に就任。9月、総督府に「台湾糖業改良意見書」を提出。11月、台湾総督府民生部殖産局長心得に就任。

明治35年(1902)
6月、後藤新平と米国・欧州視察。外遊中に臨時台湾糖務局長に任命。

明治36年(1903)
10月、臨時台湾糖務局長のまま京都帝国大学法科大学教授に就任、植民政策を担当。

明治37年(1904)
6月、京都帝国大学専任教授となり、台湾総督府嘱託。

明治39年(1906)
9月、植民政策の論文により法学博士。第一高等学校校長に就任。東京帝国大学農学部教授を兼任。

明治42年(1909)
東京帝国大学農学部教授を退任し法学部教授に就任(一高校長を兼任)。

明治45年(1912)
1月、米国の東洋研究家シドモア女史を訪問。7月30日、明治天皇崩御。

大正2年(1913)
4月、一高校長を辞し東京帝国大学法科大学専任教授。

大正6年(1917)
4月、拓殖大学前進の東洋協会植民専門学校学監に就任。

大正7年(1918)
4月、東京女子大学の学長に就任。

大正8年(1919)
4月、法科大学専任教授を退任、同大経済学部教授に就任。8月、国際連盟事務次長に任命。

大正12年(1923)
4月、摂政宮殿下(後の昭和天皇)、台湾をご視察。11月、東京女子大学学長を辞任、名誉学長に推挙。

大正15年(1926)
12月、国際連盟事務次長を辞任。12月25日、大正天皇崩御。

昭和2年(1927)
1月、東京帝国大学経済学部教授を退任。

昭和4年(1929)
4月、大阪毎日、東京日日新聞の編集顧問に就任。4月13日、後藤新平、京都にて死去。7月、井上準之助の後を襲い太平洋問題調査会理事長に就任。10月、京都にて第4回太平洋会議を主宰。

昭和8年(1933)
8月、第5回太平洋会議日本代表としてカナダ・バンクーバーに向けて出帆。10月15日、会議が終わり静養中のホテルにて発病、手術の甲斐なく死去。71歳。11月、青山斎場にて葬儀。

平成11年(1999)
5月22日、台湾・台南市の社会教育会館にて「後藤新平・新渡戸稲造事績国際シンポジウム」(現代文化基金会・新渡戸基金共催)を開催。日本から関西外国語大学教授の佐藤全弘氏と(財)新渡戸基金事務局長の内川永一朗氏がパネリストとして参加。